水の章3-15

15.


 その日リュミエールは、執務のためサクリアの間を訪れていた。

 暗い部屋の中央に設えられた壇に上り、静かに両眼を閉じる。自らの内に沈めていった意識が、間もなく大いなる力に達すると、彼はそれを慎重に導き出し、体中に漲らせていった。

 その全身から、淡い水色の揺らめきが立ち上り、空中で細かな粒子へと変わっていく。

 やがて顔を上げ、両腕を開くと、粒子は雨のように落下し始めた。だが、それらが降り注ぐ先は、遥かな距離を隔てた星々である。

(優しさを――柔らかさを――寛さを――何物も傷つける事のないように、何物をも癒す事ができるように)

恐らくは自らの眼で見る機会もないであろう土地に在る、全ての存在に語りかけ、また祈るように、水の守護聖は力を送り出していった。

 指示書どおりの放出を終え、眼を開いた青年の全身を、軽いが名状しがたい疲れが包む。足下に気を配りながらリュミエールは壇を下り、厚い扉を開けた。

「お疲れさまでした、リュミエール様」

「やあ、お疲れさん」

サクリアの間専属の職員が恭しく礼をする横で、緑の守護聖が微笑んでいた。

「カティス様……すみません、お待たせしてしまいましたか」

「いや、ついさっき指示書が回ってきたばかりだから、大して待ってはいないさ。気にするなよ」

カティスは気さくな調子で答えると、書類を職員に渡し、奥の部屋に入っていった。

 先輩の後ろ姿を見送って執務室に戻ろうとしたリュミエールは、ふとその足を止めた。

(“ついさっき”回ってきた……?)

王立研究院によって作成され、補佐官の確認を必要とするサクリア指示書は、通常、放出予定の数日前までに守護聖に届けられる事になっている。よほどの緊急事態が起こらなければ、それが破られる事はないはずだ。

(けれど……少なくとも私が執務室を出る時までに、そのような知らせは来ていなかった……)

青年は、緑の守護聖の様子を思い出していた。特に緊迫したものは感じられない――というより、平静そのものといった姿だった。

 では先刻の言葉は、自分の聞き間違いだったのだろうか。

 立ったまま考え込んでいた青銀の髪の青年は、おもむろに職員の所まで戻ると、こう言い出した。

「今、カティス様が出された書類を見せていただきたいのですが」

「かしこまりました。こちらです」

差し出された指示書にさっと眼を通したリュミエールは、その海色の瞳を曇らせた。

 書類に記された数字は、それがつい二日前に作成され、今日付でカティスに届けられたものである事を示していたのだ。

(やはり、緊急で回されている……)

研究院に問い合わせるべきかと考え込みながら書類を返すと、職員が遠慮がちに声をかけてきた。

「あの、リュミエール様……やはり、宇宙に何か起きているのでしょうか。ここ数週間、カティス様の指示書は緊急発行のものばかりですし、心なしか放出頻度も増えてきているようなのですが」

不安が表情に出ていたのに気づき、青年は強いて平静を装うと、穏やかな声で答えた。

「それほど前から異変が起きているのなら、私の耳にも届いているはずですが……今のところ、何も聞いていませんよ」

「ああ……では、取り越し苦労だったのですね。お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」

安堵の表情で謝る職員にひとつ頷くと、水の守護聖は自室に戻っていった。

 執務机のパネルにも部屋付きの侍従にも、事件を告げる連絡は何も入っていない。それを一通り確認すると、リュミエールは深い溜息をついた。

 先刻、職員を安心させるべく告げた言葉は、自分にもあてはめられる。何も知らせが来ていないという事は、知らせるに値する異変が起きていないという事だろう。

 指示書が特別な回り方をしているのも、何か事務上の都合に過ぎないのかもしれない――そう考えて落ち着こうと思ったが、不安が心を離れない。

 青銀の髪の青年は、仕方なく立ち上がると、散歩でもして気を静めようと、宮殿の中央出口に向かった。

 広い階段を下りていくと、陽光降り注ぐ美しい前庭が見えてくる。そこには珍しくも、闇の守護聖の姿があった。

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