もう一つの帰還〜「さよなら。迷宮」より〜





 美しい湖の畔で、灰色の衣を纏った長身の男が一人、物思わし気に立ちつくしていた。




 この湖に消えていった少年たち……

 彼らによって明らかにされた事……

 この世界も住人も、全ては"自分"の心の中の存在なのだという、真実……




 枝の擦れる音がして振り向くと、少し離れた木立から、弓を手にした水色の髪の守護者が姿を現した。

「"漂う者"……こちらにいらしたのですか」

「"拓く者"か……どうした」

 男は、相手の顔色がいつもより青白いのに気づいていた。

 「ケレミスの爪を避け切れず……でも、ご安心下さい。もう、眠らせておきましたから」

青年は微笑を浮かべているが、サンダルを履いた足の甲には、見るからに浅からぬ裂傷が刻まれている。

 灰色の隠者は素早くその傍らに寄ると、ほっそりした背に手を回して支えた。

「傷を洗いに来たのだな。さあ、つかまれ」

「……ありがとうございます」

 二人は肩を抱き合うようにして、湖の縁にある大きな岩に腰を下ろした。

 体を屈めようとする"拓く者"を、"漂う者"が制す。

「私が洗おう」

 返事を待たずに"漂う者"は相手のサンダルを脱がせると、その白い足を清め始めた。

 背後から、押し殺したような息づかいが聞こえる。見上げれば"拓く者"は柳眉を顰め、細作りながらも凛と張った肩を、細かく震わせている。

 気丈に振る舞ってはいるが、かなり痛むのだろう。

「……これでいいだろう。家に良い薬があるから、今、取って来てやる」

「"漂う者"……」

 立ち上がったところを、頼りなげな目で見つめられて、灰色の隠者は逡巡した。

 これほど辛そうな様子の者を、一人にするには忍びない。幸い出血も大した事はなさそうだから、少しくらい休んでいても大丈夫だろう。

「いや……お前が歩けるようになったら、一緒に行こう」

 すらりと伸びた脚を水から上げ、ようやく安堵した表情を見せる青年に、男は頷いて見せた。

「"満ちる者"が選果した宝珠の実で、"奪う者"が作り上げた薬だ。きっと良く効くだろう」

 "拓く者"は、サンダルを履きながら、微笑を浮かべた。

「あのお二人は、本当に……面白い組み合わせですね」

「そうだな」

 つられたように、"漂う者"も表情を緩める。

 "奪う者"と"満ちる者"は共に非常に個性的で、しかも、その個性が両極端といっていいほど懸け離れているというのに、妙に仲がいい。確固たる自分の世界を持っているからこそ、互いを認め、大切に思えるのだろう。

 再び青年の傍らに腰を下ろし、灰色衣の男は言葉を継いだ。

「"奪う者"の所には"渇く者"もしばしば訪れるようだが……まだ、認めあうような関係にはほど遠いようだ。それはそれで、"奪う者"にとっては、いい刺激なのだろうが」

 コヨーテと共に住む、純粋だが粗暴な少年によって、"奪う者"の家は何度も滅茶苦茶にされているらしい。ターバンを巻いた物静かな男がそれを、どこか楽しげに嘆くのを、"漂う者"は何度も聞かされていた。

 「"渇く者"といえば……あの子も、"祈る者"や"癒す者"も、"もう一つの世界"の事を、まったく覚えていないのだそうですね」

 痛みを紛らわすためか、"拓く者"は話題を次々と展開させていく。

「……何とか思い出せないかと、"導く者"が長い時間を掛けて、聞き出そうとされたようですが」

「眠っていて何も見て居ないものを、思い出せるはずもあるまい」

 灰色の漂泊者は、遠い目を湖面に向けた。




 "もう一つの世界"。

 この世界の真の主である"自分"が存在している、本当の世界。

 そこに、僅かの間だがこの自分も、存在していたのだ。

 似ていて非なる、それでいて本質は同じとも思われる周囲の者たちが、皆一様に驚愕していたのが、まるで昨日の事のように目に浮かんでくる。

 あの時、厚い眠りの帳を開けて、最初に姿を現したのは、水色の髪の青年だった。

(リュミエール……)

 その名を呼べば、目の前の守護者が消えてしまいそうな気がして、男は湖面から意識と視線を逸らす。




 「……そう言えば、あれから"導く者"にも会っていないな。どうしているだろうか」

「これからの事について考えたいと、ご自分の住処に籠もられたのだそうです。"駆ける者"が身の周りのご用をしているので、私も彼に聞いたのですが」

「そうか……」

 高い山の上の、荘厳な建造物が思い出される。

 責任感の強い"導く者"の事だ、真実を知った今、自分たちがこの世界とどう折り合っていけばいいか、全住人のために考え続けているのだろう。

 (この世界……私の世界……)

 「……どうなさいました?」

 急に黙り込んだ男を気遣うように、"拓く者"が声を掛ける。本来ならば自分こそ、負傷した彼を気遣ってやらなければならないのに。

 "漂う者"は、青年の足に目を落とした。

「この傷も……私がつけたのだな」

「"漂う者"!」

「ケレミスも、私だ。私の中の獣が、お前を傷つけた……すまない」

 悲痛な声でそう言うと、灰色の隠者は、顔を両手に埋めてしまった。

 穏やかに、水色の青年が、それを否定する。

「あなたではありません」

「何……?」

「あなたではなく、あなたがその反映である、"あの方"がケレミスを飼っているのです……でもそれは、"あの方"に限った事でしょうか?」

 顔を上げた男の前で、青年の澄んだ目は、湖よりも深く優しい色を湛えていた。

「あの世界の"私"も、"奪う者"も"導く者"も……きっと皆が、その内に獣を宿しながら生きているのではないでしょうか。時には自分で、時には他人の力を借りて、それを抑えながら……」

 "漂う者"は、暫く黙って相手を見つめていたが、やがて、感じ入ったように大きく息をついた。

「お前は……本当に、強いのだな。私などの近くにいるのが、もったいないくらいだ」

 「いいえ」

 "拓く者"が頭を振ると、ほっそりした項の後ろで、束ねた髪が揺れる。

「それに、あなたも……いえ、"あの方"も、少しずつ変わられているような気がします。以前ここは、もっと霧が深く、色のない世界だったはずですから」

「ああ、それは私も感じていた。きっと、あの世界の住人たちや様々な出来事が、"私"を変えてくれているのだろう。そして、いつかは……」

 ここで言葉を止めた灰色の流離人は、常に手にしている杖に目をやり、それから、思い切ったように続けた。

「……いつかは私も、"漂う者"ではなくなるのかもしれぬ。その時も、お前は……私の側にいてくれるだろうか?」

 隠しきれない不安が、声に滲み出ている。

 驚いたように男を見つめ、水色の守護者は答えた。

「もちろんです。あなたが私をお忘れにならない限り、あなたがあなたである限り、いつまでも……」

「そうか」

 "漂う者"は両目を閉じ、それからもう一度、答えた。

「……そうか」

 その手を取り、"拓く者"は、なおも言葉を続ける。

「どうか、忘れないで下さい……あなたがどう呼ばれるようになろうと、私はお側にいて、その名をお呼びするでしょう。今までと同じように、喜びと共に」

 灰色の男は暫く、相手の言葉と手の温もりを噛みしめるように俯いていたが、やがて唐突に立ち上がると、青年に背を向けた。

「さあ……立てるようならば、そろそろ行った方がいい。お前の射たケレミスが目覚めぬ内に」

 声が掠れているのは、隠された涙のせいだろうか。

「はい」

"拓く者"は快活に返事すると、足を試すようにゆっくり立ち上がり、弓を手に取った。

 その拍子に指が弦を弾き、まるで竪琴のような音を響かせる……




 「……お目覚めになりましたか」

聞き慣れた優しい声が、春の陽射しのように、霧の世界に注ぎ込んできた。
FIN
2000.05

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