手 紙
静かな波の打ち寄せる小さな入江は、海辺ながら、穏やかな気候と豊かな緑に恵まれていた。
ある薄曇りの午後、入江の中ほどにある村の通りを、一人の老婦人が歩いていた。
きちんと結われた髪はすでに銀一色となっていたが、地味ながら上質の服装も、凛とした歩き方も、彼女があまりこの辺りで見かけない種類の人間なのを表している。
やがて、村はずれの白い家に着いた老婦人は、ドアベルを鳴らし、人が出てくるのを待った。
「あ、教授さま……こんにちは」
間もなく姿を現したのは、プラチナブロンドに青い瞳の美しい、十一、二歳の少女である。
「こんにちは、****」
慣れた様子で少女の名を呼び挨拶すると、客は穏やかに訪ねた。
「お父様はいらっしゃるかしら」
「父は町に行っていて、明日の午後に帰ってきます……兄も一緒です」
警戒の表情で答えた少女に、老婦人は優しく微笑んだ。
「そう。ご連絡もなくお邪魔したのだから、仕方ないわね。それで、お母様は……休んでいらっしゃるの」
「はい。起こしてきます」
「いいえ、そのままにして差し上げて。その代わり……そう、机と紙を使わせていただけないかしら?置き手紙を書いておきたいから」
少女に案内された居間のテーブルで、老婦人はペンを取り出すと、長い手紙を書き始めた。
『親愛なる*****家の皆様へ
お嬢様のご好意に甘え、この手紙を書かせていただいています。
本日お邪魔しましたのは、ご子息のアカデミー転入について、私の考え方が変わったのをお知らせしたかったからです。
これまで私は、ご子息の才能を伸ばすべく、転入を強くお勧めしてまいりました。*****ご夫妻が、ご子息自身に判断させる方針なのをいい事に、何度断られても諦めず、その翻意を願って繰り返しお話やお手紙をさせていただきました。
しかし先日、ある出来事を通じて、それがどんなに独善的で愚かな行為だったか、私はようやく気づく事ができました。
突然この様に言われても、訝しくお思いになるかもしれません。実際、自分でもこれほど短時間で考えが変ったのが不思議な気さえいたします。
ですから、少しでもご理解いただき、ご安心になられますように、私の身に起きた出来事を、ここに記させて頂きたいと思います −−−
今から五日ほど前、私は諸アカデミー合同の、学部会議に出席しておりました。
会場となったのは、少し歩けば森や田園が広がっている美しい田舎町で、すっかりそこが気に入った私は、予定に余裕があるのを幸い、滞在を一日だけ延ばしたのです。
さて会議の終わった翌朝、私は宿を出ると、足の向くまま散歩にでかけました。
しかし急に激しい雨が降り出したので、やむなく森の中に逃げ込み、、雨宿りできる場所を探さなければなりませんでした。
やがて、一件の小屋が見つかりました。おそらく収穫の時期に、倉庫として使うためのものだったのでしょう、扉を開けてみると、明かり取りの窓から入る弱々しい光で、農機具が少し置いてあるのが分かりました。
私はほっとして足を踏み入れましたが、その途端、ある雰囲気 − とでも呼ぶしかないようなもの − に包まれたのです。
それは、どんな静寂よりも深い静けさ、どんな距離よりも遠い隔たり、時間さえも流れるのを諦めてしまったような、例えようもなく巨きく恐ろしいのに、それでいて懐かしく床しくて堪らないような……
こうして言葉を連ねても、その万分の一も表せない事に改めて驚かされますが、とにかく、不思議としか言いようのない感覚が、そこにはありました。
しばらくその中に心地よく身を浸しておりました私は、目の前で何かが少し動いたのに気づき、我に返りました。
小屋の中、ほんの五歩ほど先の暗がりに、先客がいたのです。
長い黒髪に黒い長衣の、背の高い男性でした。私がいるのに気づいているのかどうかも分からない様子で、手にした何かを見つめているようです。
目が暗さに慣れて行くにつれて、私は心密かに、先ほどの感覚はこの男性が、何らかの力をもって引き起こしているのではないかと思いました。
そう思えるほどに、強烈な印象を与える人物でした。
神々しさ……威厳……畏怖……戦慄……思い出すだけで、そのような言葉が、心に浮かんでまいります。
黙って見つめているうちに、その方はゆっくりと顔を上げ、私に視線を向けました。
「何者だ」
気分を損ねたり、咎めたりしているようには見えませんでしたが、私はただ、その存在に圧倒されて顔を伏せました。
すらりとした立ち姿も美しい白皙の面も、どう見ても青年としか思われないのに、その表情には、森の一番古い木より遙かに長く生きてきたかのような、驚くほどの深さと倦怠とが現れているのです。
その方がもう一度問いを繰り返したので、私は恐る恐る顔を上げ、名前と素性を答えました。
「アカデミー?そのような者に、なぜ……」
不審そうに低く呟きながら、彼は再び、手にした物に視線を向けました。
ようやくその時、私は相手の持っているのが、水晶の球なのに気づきました。窓からの薄明かりは届いていないはずなのに、それは仄かに白く光っているように見えます。
しばらく考え込んでいたその方は、やがてゆっくりと尋ねてきました。
「お前は、何かを強く心に抱いているか?願い、悲しみ、記憶……そのようなものを」
もしかしたらこの方は、名声を嫌って隠棲している、とても優れた占い師なのかもしれない − そんな事を考えながら、私は正直に答えました。
「私が今、一番気になっているのは……ある少年の事です」
相手が耳を傾けているようなので、私は話し続けました。
「まだ十三歳になったばかりの子ですが、とても優れた素質を持っているので、私は何度もアカデミーへの転入を勧めているのです。ご両親は息子次第だと仰いますし、本人もいずれはその道で身を立てていきたいと思っているようなのですが……病弱な母親を気遣ってか、なかなか転入の話に応じてくれません」
そこまで話すと、その方がこちらに一歩踏み出したので、私も言葉を止めました。
白く整った面には、遠い記憶を追っているような、そうしながらも、その遠さと記憶の苦しさに戸惑っているような表情が伺えました。
雨の音だけが聞こえてくる薄暗い空間で、そうやって、どれほどの時間が経ったのでしょう。
その方は、突然こう言い出しました。
「ではお前は、その子どもと母親を引き離したいと、望み続けているのだな」
低く静かな中に、ぞっとするような冷たさの感じられる声でした。
私は思わず、逃げ腰になって弁解しました。
「引き離すなど……私はただ、彼の非凡な素質を惜しんでいるだけです」
「素質、だと?」
暗い色をした、切れの長い両眼が、感情の揺れを映すように、微かに歪んでいます。
「望んで得た訳でもない物に、親子の間を裂くほどの価値があると?……誰もが、そう考えるものなのか?」
先ほどは恐ろしいばかりだったその声も、今は乾いた嘆きを帯びているようでした。
それで僅かに緊張が解けた私は、改めて自分の望みを思い起こし……そうして初めて、気づいたのです。
ご子息の才能 − 旅行中に偶々出会った私が、即座に魅せられた素晴らしい素質は、この地でご家族と暮らしている中でこそ、伸び伸びと育まれていくものだという事に。
そしてまた、ご子息に一刻も早く専門教育を受けさせたいという、私の思いが、自分の後継者を残したいという利己的な考えから発していたという事に。
人は皆、まず人の子であるという、そんな基本的な事を無視しようとしていた自分を、私は心から恥じました。
「誰もが考える、という訳ではありません」
後悔と、目が覚めたような清々しさとが綯い交ぜになった気持ちで、私は答えました。
「ただ私が、愚かな事を考えてしまっただけです。もう無理に転入を勧めたりはしません。もしリュミエールの音楽が、宇宙中に幸福をもたらすものならば、私などが小賢しい真似をしなくとも、運命が導いてくれましょうから」
するとその方は、信じられないというように目を見開き、問い返してくるのです。
「リュミエール、と言ったか」
「はい、この少年の名です」
私の返事に、一瞬、得も言われぬ悲痛な面もちになったその男性は、ご自分を落ち着かせるかのように両目を閉じると、呟きました。
「まさか、な……偶々同じ名だというだけだろう、見出されたばかりの次期……と」
声があまりに低かったので、最後の方はよく聞き取れませんでしたが、先ほどとはまた違う苦しげな様子を、私はただ、為すすべもなく見つめておりました。
それから間もなくの事でした。小屋の外で物音がしたと思うと、見慣れない制服を身に着けた男たちが三人、扉を開けて入ってきたのです。
彼らは、黒衣の男性を見つけると恭しく敬礼し、それから“こちらにいらっしゃったのですか!”“お捜ししておりました”“すぐにお発ちにならないと”などと、口々に言い出しました。
中には、私について尋ねる者もいましたが、男性は
「知らぬ……私同様、ただの雨宿りだろう」
とだけ答え、そのまま他の者たちに連れられるようにして小屋を出ると、どこへともなく去って行ってしまったのです。
ただ一人、雨の森の小屋に残されてみれば、今までの事が本当にあったのかどうかも定かではなく、証はただ私の心の変化だけです。
でも、あれは確かに実際の出来事でした。たとえ、この世とも思われぬ時間であったとしても。
−−− 取り留めもなく長い話になってしまいましたが、私が本心から考えを変えた事を、これで少しでもお分かりいただけたでしょうか。
改めまして、これまでリュミエールとご家族の皆様に、大変なご迷惑をお掛けした事を、心よりお詫びいたします。
今後は、私の方からご子息に転入を働きかける事はないと、ここにお約束いたします。
ですが、もし将来、ご子息自身が希望されるなら、アカデミーはいつでも喜んでお迎えするでしょう。
それでは、皆様には健やかでお過ごし下さいますように。
主星中央音楽アカデミー 弦楽部長 ****・**・********
追伸: 許されるならいつか、ご子息の音楽を愛する一人の人間として、またこちらを訪れ、演奏を聴かせていただきたいと願っております。』
幾枚にも渡る手紙を書き終えると、老婦人は少女が出した茶を飲み、礼を言って家を出た。
すでに日の落ちた空を見上げれば、宵闇の暗い紫が群雲と綾をなし、まるで誰かの眼差しのように、物凄くも美しく広がっている。
老婦人は突然、はっとして呟いた。
「闇……もしや、あの男性は!」
確かめるすべもなく下りていく視線の先で、広く穏やかな海は、闇も紫も優しく溶かし込みながら、ただ優しく波を寄せ続けているのだった。
FIN
02.05