ムーンストーン



 どうして、それに思い至らなかったのか。 どうして、それを思い出さなかったのか。

 一番大切な人を傷つけてしまったかもしれないというのに……

 自分の考えの浅さを嘆きながら、リュミエールは両の手で顔を覆ってしまった。

 それは、愛する人の指が、首筋を伝って彼の右の耳朶に至ろうとしていた時だった。




 五日前の事。

 「これを、私に?」

 クラヴィスの執務室を訪れていたリュミエールは、掌に乗せられた、小指の先ほどの半透明な石を見つめながら、思わす聞き返していた。乙女になぞらえられる事さえある優しげな顔立ちの中で、いつも柔和な光を湛える青い目が、今は大きく見開かれている。

 「以前、庭で見つけたものだが……気に入らぬか」

 漆黒の髪を胸の下で切りそろえたばかりの闇の守護聖が、無表情のまま答える。だがリュミエールはその暗色の瞳の底に、誰も、恐らくは本人も気づいていない、深く暖かい心が流れているのを知っている。

「いいえ、とんでもありません。ありがとうございます……大切にいたします」

 心からの感謝と喜びを微笑みに託して、彼は静かに一礼した。

 ムーンストーン……どこか陰を帯びたその輝きは、対象をむき出しの姿に晒すことなく、秘すべきは秘したままに、傷ついたものを憩わせ癒してくれる優しさを感じさせる。

 クラヴィスがずっと以前から、この石を好んでいるのを、リュミエールはよく知っていた。まして、購って手に入れたのとは違い、様々な偶然が運命となってもたらしたともいえるこれには、物にほとんど執着しないクラヴィスさえも、愛着に近い思いを抱いているようだ。

 そんな大事な貴石を贈られたのが嬉しくて、その日リュミエールは一日中、白い石を眺めながら過ごした。




 翌朝。

 美しい小箱に納められたムーンストーンは、水の守護聖と共に出仕し、執務机の引き出しにそっと置かれた。その存在を暖かな気持ちで感じながら午前の執務を終え、昼食をすませたリュミエールは、いつもの様に竪琴を携え、闇の守護聖の執務室へ向かおうとした。

 しかし、彼はドアの前で机を振り向き、苦笑した。

「やはり、置いてなど行けませんね」

 引き出しから貴石の箱を取り出して衣の中に納めると、リュミエールは改めてクラヴィスの部屋へと足を運んだ。

 いつもと変わらぬ暗色の内装に迎えられ、いつも通りの言葉少ない挨拶を交わすと、彼は部屋の主のために竪琴を奏で始めた。

 そして、最初の調べが終わった時、リュミエールはふと思いついてムーンストーンを取り出した。

「クラヴィス様、昨日頂いた、この石ですが」

「……持ち歩いているのか」

 闇の守護聖の、黒い睫毛に縁取られた切れ長の目が、少しだけ見開かれる。

「はい、いつも……クラヴィス様を近くに感じられるように。ですから、常に身につけていられるよう、何かに加工してもよろしいでしょうか」

「お前にやったものだ、加工なり何なり、好きにするがよい。だが……」

端正な象牙色の面に、名状しがたい感情の揺れを見せながら、クラヴィスは言葉を継ぐ。

「常に身につけるなど……そんな必要もあるまい」

「クラヴィス様……」

 相手の眉が僅かに顰められているのに気づくと、リュミエールはそれ以上何も言えなくなってしまった。

 「……さて、もう一曲聞かせてくれるか」

クラヴィスは、静かに両の目を閉じた。




 その夜リュミエールは、寝室のバルコニーで、星空を見上げながら竪琴を弾いていた。しかし、気持ちがすぐに室内に逸れていくのを感じずにはおれなかった。

 今はベッド脇の小机に置いてある、ムーンストーン。

 愛する人と想いを通じ合ってから、初めて貰ったプレゼントであるそれは、彼にとっても単なる貴石ではない。眺めれば眺めるほど、贈り主の分身とも思われて、離れている間の寂しさを、少しでも紛らわせるための拠とも感じられて、片時も身から離したくなくなってくる。

 (けれど、クラヴィス様はそれが、お気に召さないご様子だった……)

銀色の弦から、繊細な指が、力無く下ろされる。

 あの方の心に沿わない事など、自分にはできない。どんな些細な傷さえ付けたくはないほどに、大切な方だから……

 リュミエールは一つため息を付いて、寝室のガラス戸を振り返る。 そこに映った自分の姿をぼんやりと見ているうちに、彼の心にはある考えが浮かんできた。




 そして二日後の夕方、リュミエールは嬉しそうに手鏡を見つめていた。

 女王が代替わりし、守護聖の公式な衣装もデザインを一新されたのを機会に、リュミエールは髪を右肩の所で束ねるようになっていた。

 実はこれは、彼の故郷の風習で、生涯を共にする伴侶を得た者の髪型とされている。無論この聖地では知る者もいないであろう風習だが、彼はただ自分の愛への祝福と、遠い願いのために、この髪型を選んだのだ。

 そのせいで現れるようになった左耳には、アクアマリンに似た故郷の石を、イヤリングとしてあしらってある。だが、完全に髪に隠れる右耳には、何も付けてはいなかった。

 今そこには、届けられたばかりのムーンストーンのピアスが、優しい光を放っていた。愛する人に秘密を持つのは心苦しくもあったが、それを耐えさせるほどの喜びと安らぎを、この光はもたらしてくれるようだ。

 明日と明後日、クラヴィスは職務のため聖地を離れる。そんな時にはいつも、一刻も早い、そして無事な帰りを願う思いが眠りを遠ざけてしまう。故郷だけでなく、想い人にも届けと、竪琴を掻き鳴らしてしまう。

 だが、この小さな宝物が自分と共にあると思うだけで、少しだけ気が紛れる。少しは落ち着いて、彼の人に想いを馳せられる。 

 "案ずるな、私はすぐ帰る……もう休め"

 そんな声が聞こえた気がして、リュミエールは一人微笑むと、寝室の灯りを消した。

 右耳の秘密は、誰に見破られることもないだろう。そう信じきった彼に、間もなく安らかな眠りが訪れた。




 確かにそこは、誰にも見られることのない、秘密の場所だった。それを秘密にしたい、当の相手を除いては。




 土の曜日の夕刻に帰還したクラヴィスは、手短に報告を済ませると、その足でリュミエールの館を訪れた。

 いつもより少しは落ち着いていられたといっても、会えない日々はやはり、一日が一月とも一年とも感じられる。できるだけさり気なく人払いをすると、リュミエールは愛する人の腕に身を投げた。

 クラヴィスの抱擁にも、驚くほどの熱と力が籠もっている。表情にこそ現れないが、彼もまたこの瞬間を待ち続けていたのだろう。

 そうして互いを確認すると、二人は少しだけ顔を離して見つめ合う。

 やがて、どちらからともなく寄せられた唇が、秘められていた情熱を一気に掻き立て始める。リュミエールの背に回されていた長い指が肩を辿り、水色の髪を縫い、首筋を伝って右耳に至り……

 そして、動きを止めた。




 「お許し下さい!」

 クラヴィスの腕から身を振りほどき、リュミエールはその場にひざまずいた。顔を覆っていた手が、祈るように胸の前で組まれる。

 闇の守護聖は無表情に、その姿を見下ろしている。

「お気に召さないと知りながら、私は、私は……」

 あなた様のお気持ちを、何よりも、命よりも大切に思っていたはずなのに。

 後は震えて言葉にならない。あふれる涙の重みに耐えかねるように、繊細な面は深く 伏せられてしまう。

 永遠とも思われる、長い沈黙が続いた。

 やがて頭上から聞こえてきた微かな音に、彼は思わず顔を上げた。

「クッ……全く、お前は……」

闇の守護聖が、喉の奥を鳴らすようにして、小さく笑っている。

「普段は思慮深い事この上ないというのに……突然衝動的になるかと思えば、とんでもなく迂闊にもなるのだからな」

 つと手を伸ばし、リュミエールの肩を引き上げる。

「いけない事だと……お前は思っていたのか。では、この耳が勝手にピアスをほしがったのだな」

「あ……」

「……罰さねばなるまい」

 耳朶に寄せられた唇が、宣告した。




 そして、ひとときの後。

 寝室のカーテンを通して、ぼんやりと差し込む月明かりが、恋人たちを優しく包んでいた。

 まだ潤んだままの目を気にしながら、リュミエールはそっと身を起こす。小机からブラシを取り出すと、解かれ乱れた髪を梳き整え、それから傍らの人影に、遠慮がちに声をかけた。

「あの……クラヴィス様」

「……うん?」

寝入ってしまったように見えた闇の守護聖が、僅かに瞼を上げる。

 その顔をまっすぐ見つめながら、リュミエールは言いだした。

「これでは……罰になりません。私は、あなた様を裏切ってしまいましたのに」

「……何を言うかと思えば」

 クラヴィスは片手を付き、半身を起こした。  

「気が済まぬ、というのか」

「はい」

真剣に、リュミエールは答えた。

 その様子に、また喉の奥で低い笑いを漏らしたクラヴィスは、ふと真顔に戻ると、

「では、もう一つの罰だ」

と言いながら、恋人の水色の髪を掻き上げた。

「よいか……決してこのピアスを、外してはならぬ」

 驚いたように目を見張るリュミエールの肩を、クラヴィスはもう片方の手で引き寄せる。

「共にいない時間まで、お前を縛ってはいけないと、私が自分を戒めていたというのに…… 本当に、お前は……」

「クラヴィス様……」

 闇の守護聖は、ふっと微笑の息を漏らした。

「よく、似合っている」

 リュミエールの目から、新たな涙が流れ出す。その雫は月明かりを受けて、貴石よりも優しい輝きを放っていた。
FIN
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