闇の章・1



1.


 この感覚は……何だ?

 あたたかく、やわらかく、目映いほどに清浄な、これは……

 これは、美しい水の流れだ。




 心の中まで注ぎ込むこの流れに、

 すべてを委ねることができたなら………………



 私も、また、あたたかくなれるのだろうか。






 黒髪の青年は目を開くと、ゆっくり半身を起こした。

 明るい緑の幕でしかなかった視界が、少しずつ形を成していく。

 覚めきらない意識の中で、彼は先ほどの感覚が、この湖畔に流れる音楽によるものであるのを、ぼんやりと悟っていた。

 静かに頭を巡らせる。

 手を延べて触れられるほどではないが、すぐ近くと言ってよい場所に楽士が一人座し、竪琴を奏でている。

 新しく聖地に招かれた者だろうか。

 このような音色は、未だかつて聞いた事がない……




 その時、音が不意に止まり、楽士がこちらを振り向いた。




 黒髪の青年は、声もなく相手を見つめた。

 聖地を流れる水は、他のどこを流れる水とも異なる特別なものだと、たしかに教わった覚えがある。が……

 まさか森の湖に仙女が棲むとは、これまで聞いたこともなかった。

 ほっそりした肩から流れる華奢な腕に、白い竪琴を携えた仙女は、柔らかな銀青色をした髪を、同色のローブの背に下ろし、そして……

 儚いほどに優しく美しい、その面は今、蒼い瞳を一杯に開いて、驚きの表情を見せている。人間に見つかる事をひたすらに恐れる、神秘の存在のように。




 無言で見つめ合ううちに、しかし青年は、自分の間違いに気づき始めた。

 目の前の姿からは、脆そうな中にも、どこか凛とした雰囲気が伝わってくる。その肢体はただ華奢なだけでなく、芯の通った強靱さを秘めているのかも知れない。

 よく見れば、細い喉にも、微かな膨らみがあるようだ。

(……少なくとも、仙女ではないらしい)

 そこまで思いついた時、いきなり楽士は、

「申し訳ありません!」

と、謝ってきた。

 その姿に相応しく優しい、だが紛れもなく少年の声である。

 寝起きとは言え、そして相手がことのほか優れた容姿をしているとは言え、とんでもない発想をしたものだと、青年は心密かに溜息をついた。

 だが真実、幻惑されるほどに美しかったのだ、あの音色は。




 青銀の髪は、まだ草茂る地面近くで揺れている。

 謝りながら垂れた頭を、少年は上げようとしない。恐らくは自分が返事をしない限り、このままの状態が続くのだろう。

 しかし、どう答えれば良いものか。

 「何を謝る」

逡巡したあげくの半ば途方に暮れた問いに、楽士はごく僅か顔を上げると、震える声で答えた。

「……はい。あなた様がここでお休みなのに気づかず、竪琴の音で起こしてしまいました」

 先ほどの神秘的な趣とはうって変わって、いじらしいほど緊張した表情。

 青年は、我知らず微笑していた。

「謝る事などない。いい目覚めをさせてもらった」

 それを聞いて安心したのか、少年も表情を緩める。

 白い花のように、清らかな笑顔。

 外見と同じくらい、内面も穢れなく美しいのだろう。とてもただの新参の楽士とは思われぬが……




 <近づいてはならない。

 少しでも安らぎに、喜びに、結びつくものには。>




 完全に覚醒した意識が、その時青年に、警鐘を鳴らした。

(私は、何を詮索しようとしているのだ?)

 彼は自分が規を踏み外しかかっていたのに気づき、動揺を覚えた。

(このような事は……久しく無かったはずだ)




 あたたかさも、やわらかさも、清浄も……自分とは懸け離れた存在だ。

 秘めた想いが失われた想いに変わった日、この心からは、生きた世界が消滅してしまった。そのような場所に、これほど似つかわしくない者もいまい。




 <お前には、安らぎや喜びを求める資格など、ない。>




 薄暗い部屋の中で、僅かな光を受けたその髪だけが輝いていた。

 激しい眼差しが、時空を越えて心を苛み続けている。

(悲しみ、後悔、憤り……己に対してか、私に対してか、それとも運命に……)




 青年は、無言で立ち上がった。




 <近づいてはならない。>




 紫の瞳は何も見ず、白皙の面は何の表情も現していない。

 少年は何か言おうとしていたようだったが、彼は意に介さず、その場を去った。


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