水の章・1


1.


 到着したばかりの十七歳の少年の目に、そこは、まさに楽園と言っても過言ではない世界だった。

 馬車の窓から窺えるだけでも、澄み渡った青空の下を楽しげに飛ぶ鳥、青々と茂る木々、 花は瑞々しく咲き誇り、行き交う人々の表情もみな楽しげで…………。

 深い海のように蒼い瞳を輝かせ、はにかんだ小さな声で、彼は、向かいの席の男に話しかける。

 「きれいな……所ですね。聖地が美しいと伺ってはおりましたが、これほどとは、思ってもみませんでした」

 宮殿から聖地の門まで迎えに来ていた高官は、次期水の守護聖が白い頬を上気させているのに気づくと、緊張の表情を少し緩めた。

 柔らかく流れる銀青色の髪だけでも浮世離れした印象を与えるのに、その上、あまりに整った、 そして儚げな少年の顔立ちを見ていると、つい、本当に生きている人間なのかと疑いたくなってしまう。 それが、意外なほど素朴な反応をしているので、われ知らず安堵したのだ。

 「ええ、女王陛下はじめ守護聖の方々が長い時を過ごされる地ですからね。それに相応しく美しくなければ」

自分もまた、その地の一部なのだという誇りが、彼の声に張りを与えている。

 しかし、少年はそれを聞くと、急に物思いにとらわれたかのように目を伏せてしまった。

「守護聖……水の守護聖…………どうして私が……」

 細い呟きに気づいた高官が、訝しげに声を掛ける。

「リュミエール様、ご気分でも?」

「あ……すみません、何でもありません」

 少年は軽く頭を振ると、再び窓を向いて辛そうな表情を隠し、密かにため息を付いた。

「……私は、優しくなどない……のに」






 本来ならば、馬車はまず宮殿に向かい、女王補佐官と現・水の守護聖の出迎えを受けるはずだった。

 だが、同時に到着するはずの、次期炎の守護聖が遅れているという知らせがあり、リュミエールは図らずも、数時間の猶予を得る事になった。

 「お屋敷に向かわれるには、時間が半端ですし……宮殿の談話室にでも行かれて、一休みされてはいかがでしょう」

 高官はこう勧めたが、少年は即座に頭を振った。全てを断ち切って来た長旅の後で、 見知らぬ人たちの間に入ってくつろげるほどの神経が、自分の中にあるとは、とても思えなかった。

 「せっかくのお心遣いを、申し訳ありませんが……それよりもどこか、この近くに水辺はありませんか。 先ほど、馬車の中から小さな流れが、見えたような気がするのですが」

「水辺。ここからなら、森の湖が一番近うございますが」

 「森の……湖」

穏やかな響きだけで、心の疲れが癒される様な気がしてくる。

「それは、どこにあるのですか。歩いて行けるところでしょうか」

 沈みがちだった瞳の青色が、少しだけ明るさを取り戻していた。






 付いていくという高官を何とか思いとどまらせ、リュミエールは愛用の竪琴一つを手に、教えてもらった道を歩いていった。

 自分の足で移動する聖地は、車窓から見たよりも更に美しい。 今日は聖地としては涼しいと高官は言っていたが、麗らかな日射しを浴びていると、少しも寒さを感じない。 遠くから少しずつ近づいてくる水音の涼しさが、耳に心地よいほどだ。





 草地を踏みしめ、木立を抜けたところに、その湖はあった。

 「何と……神秘的な」

少年は、思わずため息を付く。

 決して大きくはないが、どこまでの深さがあるか知れないその豊かな趣。水は少しの濁りもなく澄んでいるのに、 濃い青色が次第に暗くなり、水底は計り知れなかった。

 だが、水面は明るい陽を受け、傍らの崖から落ちる滝の流れを受けて、楽しげにきらめいている。

 リュミエールはそっと、湖畔に腰を下ろした。

「これが、聖地の水……」

 景色も気候も違うのに、故郷の海と同じ感触を、彼の心は捉えていた。

 いつもその光と闇、そして音や動きで彼の緊張を解き、不安を押し流し、心を潤してくれた、水。

 ……ここでも、何とか生きていけるかも知れない……。

 大げさでなく、彼は心底安堵してそう思った。故郷の惑星しか知らず、また、内向的な性格のために、あまり多くの人と交わる事の無かった少年にとって、この湖は大切な、心の拠り所となる様に感じられた。

 「湖よ、あなたに私から、この地で最初の演奏を捧げましょう」

穏やかな陽に満たされた湖の周囲一面に、美しい竪琴の音が流れ始めた。





 一節を奏で終わると、リュミエールはふと、何かの気配を感じて振り返った。

 そこに、眼差しがあった。

 歩けば五歩ほどの距離だろうか、低い木立を挟んで、一人の白皙の青年が、草地に腰を下ろしたまま、こちらを見つめている。 たった今眠りから覚め、半身を起こしたばかりという風情である。

 漆黒の髪は艶やかに流れ、瞳の紫は、湖よりも深い。

 これほどに美しい色を、リュミエールは見たことが無かった。

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