水の章・1−2
2.
優しい風が、青銀の髪を一筋、すくっていった、
我に返った少年は、初対面の人を無遠慮に見つめてしまった非礼に気づき、身を強張らせた。相手も同様だったのだが、そんな事を考える余裕が、今の彼にはない。
その代わりに思いついたのは、青年が、ついさっきまで草地で眠っていたらしいという事だった。恐らくは、この静かな場所で、心地よい安らぎを得ていたのだろう。
少年は急いで立ち上がると、頭を深く下げながら叫んだ。
「申し訳ありません!」
しばしの沈黙。
やがて、落ち着いた低い声で返事があった。
「何を謝る」
「…………はい。あなた様がここでお休みなのに気づかず、竪琴の音で起こしてしまいました」
夢中で答えるリュミエールの耳に、ふっという息づかいが聞こえた。それが怒りと言うよりは、微笑みに相応しい音なのを感じ取り、少年は思わず顔を上げる。
「謝る事などない。いい目覚めをさせてもらった」
紫水晶の瞳が一瞬、夢見るように柔らかく、輝く。
リュミエールはうっとりと見つめながら、しかしそれが、突如色を失ったのに気づいた。眼差しは暗く沈み、柔らかな輝きが、何も見ず何も語らぬ虚無の中へと消えてしまう。
少年は為すすべもなく、ただ呆然と相手を見つめていた。
そして、白皙の面が完全な無表情となった時、青年は無言で立ち上がった。
「あ…………」
口を開き掛けたリュミエールは、掛けられる言葉を何も持っていないのに気づき、黙り込んでしまう。
青年は、一瞬こちらに目を遣ったが、すぐに歩き始めた。
穏やかな陽光にも、優しい水音にも、湖畔に立ちつくす竪琴弾きにも、全てに背を向けて。
半ば放心状態で、少年は来た道を引き返して行った。先ほど初めて見た時は感嘆の声を漏らした壮麗な宮殿が、今は単なる大きな建物としか感じられない。
そして、入口のホールに差し掛かった時、いきなり彼の手を、誰かの手が握った。
驚いて立ちつくす彼の前には、冷たい氷 ― いや、微笑む氷青色の目と、鮮やかな赤い髪を持つ少年が立っている。
「君の美しい瞳を曇らせているのは、悲しみなのか?俺で良かったら、何でも力になってやろう」
甘く優しい、そして力強い声。
「…………は?」
「宮殿に仕える女性は皆、美しいと聞いていたが、これほどとは思ってもみなかった。どうかその可愛い唇で、名前を教えてくれないか」
「オスカー様!」
ホールの奥の方から、見覚えのある姿が駆け寄ってきた。
状況が掴めずに戸惑っているリュミエールを、先ほどの高官が見つけてくれたのだ。
「こちらは、次期水の守護聖の、リュミエール様です!」
「……何!?」
赤毛の少年は、掴んでいた手をぱっと放すと、穴の開くほどリュミエールを見つめ、そして、苦笑した。
「やれやれ、俺としたことが。まさか同僚だったとはな……じゃ、しきり直しといこうぜ、リュミエール」
態度も声も一変したオスカーの背後で、彼を迎えに行っていたらしい別の高官が、頭を抱えているのが見える。
「俺はオスカー。お前と同期で、炎の守護聖となるために、たった今聖地に着いた。よろしくな」
「リュミエール……です。どうぞ、よろしくお願いします」
青銀の髪の少年が、まだ当惑の残る声で挨拶を返した時、奥から侍従が現れ、おごそかに告げた。
「お時間です。お二人とも、こちらへどうぞ」
二人の少年が導かれたのは、集いの間 ― 装飾は少ないが落ち着いた雰囲気の、明るい小広間である。
そこに、一人の少女と8人の男性が、彼らを待ちかまえていた。
「予定が変わりまして、全員の守護聖様方が、お迎えする事になりました」
侍従は小声でこう言うと、そつのない身のこなしでドアの脇に戻った。
リュミエールはおずおずと、オスカーはまっすぐに顔を上げる。
目もくらむ様な金の髪を、惜しげもなく胸に背に下ろした青年が、その整った面を微かに歪めているのが目に入った。澄み切った空の色をした瞳にも、胸飾りに当てた白い手にも、苛立ちが隠しきれない様子だ。
「ディア、集合の連絡は、確かにクラヴィスにも伝わったのだろうな」
「ええ、ジュリアス。ですから、きっともうすぐ着くと思いますわ」
女王補佐官であろう少女が、柔らかな声で答える。見たところ、オスカーやリュミエールと同年輩の様だが、自分より明らかに年長の男性を宥めるように微笑む様子は、彼女がただの美しい少女ではない事を物語っている。
しかし、金の髪のジュリアス ― これは、光の守護聖の名前だ ― は、まだ収まらないらしい。誰にともなく呟いたのであろう声が、しんとした広間に響き渡った。
「何事も、最初が肝心だというのに……一体どこに行っているのだ、あの者は!」
「……ここにいる」
一同と共に入口に目を遣ったリュミエールは、思わず声を上げそうになった。
言葉に次いで広間に入ってきたのは、黒髪白皙 ― つい先ほど、森の湖で出会った青年である。
クラヴィス。闇の守護聖クラヴィス。
リュミエールは、口の中で何度もその名を呟いた。どうしてあの時、気づかなかったのだろう。常人とは思われないこの人の雰囲気。存在感。
……そうだったのですか……
守護聖の中でも、特に長い期間を聖地で過ごしている、第二位のサクリアの持ち主。そして、今日からは自分の先輩であり、同胞だともいえる……
銀青色の髪の少年は、密かに喜びのため息をついた。