水の章4−60


60.



 驚いて駆け寄った守護聖たちもまた、愕然とした。全ての計器が、計測不能を表示している。個々の測定値の意味はわからなかったが、少なくともこれが、途方もない異常を伝えている事だけは明らかだった。

「……説明せよ、パスハ!」

さしもの光の守護聖も、声に動揺が隠せない。

 パスハは、短く答えた。

「回廊が失われました」

二人の守護聖は、衝撃に声も出なかった。

 竜族の青年は、促されるのを待たず言葉を続ける。

「陛下がサクリアを救済に向けられ、ディア様も倒れてしまわれたため、保持する力が送られなくなり、混沌に飲み込まれたようです。今はもう、痕跡しか残っていません」

 回廊の扉を、リュミエールは信じられない思いで凝視した。

 戻る道が無くなった。新宇宙に移動できなくなった。育成を早める連絡もできず、救済も間に合わず、このまま宇宙と共に滅びの開始を待つしかなくなってしまった。飛空都市の誰とも、闇の守護聖とも、再び会えないままで。

 呆然としている水の守護聖の耳に、ジュリアスの掠れた叫びが流れてきた。

「だが……育成指示だけは、何としても伝えねばならぬ。今すぐだ!」

「この状態で、無理に宇宙間に出て行っても、同じように飲み込まれてしまうだけです。理論上、部分的に混沌を制御する事は可能ですが、仮に成功したとしても、回廊のような安全性は、とても望めません」

パスハは、絶望したように頭を振った。人が通るには危険すぎるが、だからといって書類や電波のみを送り込んだところで、飛空都市に転送できるわけでもない。通常の回廊でさえ、意志を持った者が進んでいかなければ、目的の時空には辿り着けないのだ。

 しかし守護聖たちは、同時に声を発していた。

「構わぬ。私が向かうゆえ、すぐ始めよ」

「とにかく通ってみますから、制御をお願いします」

自分の言葉が希望と受け取られたのを知って、竜族の青年は驚きの表情になった。

 だが、こうして手をこまねいていても、どのみち崩壊は始まってしまう。新宇宙からの力が間に合わず、救済に遅れが生じれば、この地もいつ危険に陥るかわからない。それを最もよく理解しているのは、パスハ自身だった。

 竜族の青年は短く眼を瞑ると、すぐに元の表情に戻って、答えた。

「……わかりました」





 装置にいくつかの調整をしてから、パスハは守護聖たちに向き直った。

「補助作業の効果が出るまで、少しだけ時間がかかります。その間を使って、今回の方法について、簡単にご説明しておきましょう」

 ジュリアスとリュミエールは、無言で耳を傾けた。

「この宇宙間の混沌には、秩序あるものが入り込んだ場合、それを攻撃して吸収し、自らに同化させるという性質があります。回廊が飲み込まれたのも、その性質のためです。しかし近年、この攻撃が、部分的にある種の秩序──ちょうど、一斉攻撃における統制のようなものです──を発生させる事がわかってきました」

(混沌に、秩序が……)

水の守護聖は、心中で呟いた。自らと矛盾するものを生み出してしまう性質もまた、混沌ゆえなのだろうか。このような危急の時でさえ、宇宙の神秘には驚かされずにられない。

 その思いを読み取ったかのように、竜族の青年は話を続けた。

「もちろん、これは本質に逆らう異物ですから、幾らもたたないうちに飲み込まれるほどの、ごく小さな規模でしか生じません。しかし近年になって、ごく限定的ながら、この秩序が周囲の混沌を弱める働きをする事が観測されたのです。そこで、何かを送り込んで攻撃を受けさせ、意図的に弱い部分を作って、そこを通行するという方法が研究されるようになりました」

「つまり──囮を使うというわけか」

ジュリアスの言葉に、パスハは慎重に答えた。

「そのように申し上げてもいいでしょう。しかしまだ、実験も始まっていない段階ですから、現実にどこまで有効な方法かはわかりません。少しでも確実性を高めるため、先ほどからこの装置を用いて混沌の一部を刺激し、弱りやすい状態を作っているところですが、そもそも回廊の安定性を補うために作られた装置なので、あまり大きな効果は期待できないでしょう」

言いながら、竜族の青年は自分の躯を見下ろした。

「この囮で充分かどうかわかりませんが、とにかく最善を尽くします」

「まさか、あなたは……」

水の守護聖は、ぞっとする思いで言いかけたが、パスハの冷静な声がそれを遮った。

「現時点での考察では、ある程度の秩序と、混沌の中で少しでも長く存在できる意志を持つもの──すなわち人間こそが、囮に最適だとされています。その役を私がいたしますので、お二人は後ほど、こちらの計器で混沌の弱まったのをご確認の上、充分お気をつけてお通りください」

「そ……んな……」

狼狽するリュミエールの横で、光の守護聖が搾り出すような声を出した。

「そなたは、どうなるのだ」

「混沌に飲み込まれた後については、まだ何もわかっていません。では、そろそろ準備ができたようですから──」

パスハが話を終わろうとした時、どこからか奇妙な音が聞こえてきた。

 三人が装置を振り返ると、機械全体が細かく震え出し、計器の表示がめまぐるしく変わり始めているのが見えた。どうやら、本来の用途を超えた使い方のために、無理が生じてしまったようだ。

 竜族の青年は再び調整を始めたが、一旦は静かになったかと思っても、次の瞬間には別の場所から、振動と異音が発生してしまう。絶えず計器を確認し、操作し続けていなければ、装置自体が壊れてしまいそうな有様だった。

 その様子をじっと見ていたジュリアスが、おもむろに口を開いた。

「パスハは、このまま調整を続けるように。リュミエール、きっと指示を伝えるのだぞ」

「ジュリアス様!」

光の守護聖が、自ら囮になろうとしているのに気づき、リュミエールは蒼白になった。これほど尊い魂を持つ、これほど宇宙にとって重要な人物が、このように弱った状態で行っていいはずがない。戻れるあてもない、いかなる攻撃を加えられるかもわからない所に、たった一人で。

 水の守護聖は衝動的に駆け出すと、先を歩いていたジュリアスを、横に押しのけた。

「何をする!」

怒りと驚きの声に、心で謝りながら追い抜き、扉の取っ手に手を掛ける。

 一瞬だけ、意志が揺らいだ。誰よりも懐かしい人の姿が、胸中に立ち上ったのだ。

 だが、救いたい宇宙は、その人の故郷でもある。命を削るように護り続け、言葉にせずとも深く愛し続けてきたのを、自分は知っている。

(あの方も、あの方のものも、何一つ損ねさせない……!)

リュミエールは再び腕に力を入れると、扉を押し開いて身を投げた。

「囮には私がなります。ジュリアス様は、どうか宇宙を──」

「リュミエール!」

背を向けたまま叫んだ声に、光の守護聖の叫びが重なり、そして、遠のいていく。





 圧倒的な何かが、全方向から襲いかかってきた。 包まれ、覆われ、溶かすように否定されるのを、少しでも遅らせようと、リュミエールは抗った。自己を保とうと、あらん限りの力で抗い続けた。

 しかしその力も、限界を迎える時が来た。

 胸に抱く姿が、意識と共に消えていく。

 囮の役目を、自分は果たせただろうか。そうであるようにと、リュミエールは願うしかなかった。


祝福の章へ続く


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