水の章4−59
59.
守護聖たちと竜族の青年は、禁域に踏み入った。
パスハがあまりに速く歩いていくので、リュミエールは光の守護聖が心配になったが、不本意ながら椅子で休息をとれたのが効いたらしく、何とか遅れずについてきているようだ。
いくつかの交差を経ながら、三人は廊下を進んでいった。人の姿が全く見あたらないのは、先刻の者を除いてここの侍女たちもまた、動けなくなっているからなのだろう。
やがて廊下の先に、突き当たりらしき部屋が現れた。
扉を開けると、星の間に似た造りの中央に、跪くディアの後ろ姿が見えた。さらにその先には幾重もの薄幕が掛けられ、見通せないようになっていたが、漂ってくる高貴な気配から、誰がいるのかは自ずと察せられた。この部屋こそが、宇宙に向けて力を送り出す聖なる場所、女王と補佐官にとっての星の間なのだ。
竜族の青年は、補佐官の傍らに駆け寄ると、膝をついて呼びかけた。
「ディア様」
だが、眼の前の撫子色の姿には、何の反応も現れない。
様子を見ようと回り込んだ守護聖たちは、補佐官が先日とは別人のように衰弱しているのに気づいた。閉ざされた瞼は深んで影を成し、祈るように組まれた両手には筋が浮きだしている。
「陛下に、力を送っているのだ」
誰にともなく、ジュリアスが低い声で言った。
「聞いた事がある。陛下の御手に余るような非常の事態にあたっては、補佐官はその全ての力を、必要とあらば生命力をも陛下に捧げ、お助けするのだと」
水の守護聖は息を呑んだ。偉大な職だとは思っていたが、優雅で温厚なこの女性が、そのような苛烈な役目を負っているとは知らなかったのだ。
一方パスハは、怯んだ様子もなくディアの両肩に手をかけ、呼びかけながら揺さぶりだした。時を逸すればいかなる献身も意味がないと、割り切ったのだろう。
まもなく意識を引き戻された補佐官は、瞼を半ば開くと、うわ言のように弱々しく聞いてきた。
「……パスハ……なぜ、ここに……」
「救済を開始して下さい。このままでは夜を待たずして、宇宙の至る所で命が失われ始めます」
会話を聞き漏らすまいと跪いた守護聖たちの前で、竜族の青年は簡潔に告げた。
「何だと、それはまことか!」
ディアが反応する前に、ジュリアスの驚愕した声が響いた。
「事実です。終末の到来速度が、予測の最大値を超えかけているのです。陛下にも、お伝えした方がよいかと思いますが」
「……なりません」
その返答を耳にして、補佐官は微かに、しかし必死の形相で頭を振った。
「陛下が一瞬でも……気を散じれば……崩壊が……」
「しかし、このままでは」
言い募るパスハに、撫子色の髪の女性は、最後の力を振り絞るように答えた。
「新宇宙の……育成を、今すぐ……」
そこまで言うとディアは意識を失い、床に崩れ落ちた。
「ディア様!」
水の守護聖と竜族の青年が、同時に補佐官に手を伸べる。背を支えたリュミエールは、この女性が集いの後で倒れかけた時よりも更にやせ細っているのを、自らの腕で感じた。
呼吸と脈を調べ、パスハは光の守護聖に告げた。
「どちらも弱くはありますが、安定しています」
「ディア……」
ジュリアスは痛ましげに眼を伏せたが、すぐ振り切るように立ち上がった。
「飛空都市に行くぞ」
水の守護聖はその意味を、胸の締め付けられる思いで悟った。補佐官が意識を失い、女王に接触する事もできないとなれば、もうここに留まる意味はない。今自分たちが為すべきは、心配や介抱ではなく、補佐官の意思に従う事なのだ。
低いが覚悟のこもった声で、ジュリアスが続ける。
「ディアの護りが失われた今、次元回廊はいっそう通り難くなっているはずだ。パスハは一般通行用の装置で補助してくれ。リュミエールは私に同行し、もしこの躯が言う事を聞かなくなったら、代わりに指示を伝えてほしい。今日依頼を受けた者は、執務時間の終了を待たず、即刻開始するようにと」
「はっ」
「……はい」
補佐官をそっと床に横たえると、廊下にいた先刻の侍女に手当てを命じ、三人は禁域を出た。
次元回廊に向かう道すがら、光の守護聖がパスハに問いかけた。
「しかし、この宇宙の危機にあたって新宇宙を育成せよは、どういう意味なのだろうか。そなたは、何か知っているのか」
「いいえ、研究院はデータを提供するのみで、救済については一切教えていただいておりません。ただ──」
慎重な言い方で、竜族の青年が続ける。
「関係があるかどうかわかりませんが、いつかディア様が仰っていた事があります。二大陸の中央の島は、単なる判定の指標ではなく、回廊を隔てたこちらの宇宙にも重要な意味を持つ場所なのだと。そして、周囲をサクリアで満たされ、新女王となる者の意思を受け止める時、あの島には大いなる力が発現するだろう、と」
「大いなる……力」
水の守護聖は、思わず繰り返した。
この宇宙にとって重要であり、女王が発現を望む力とは、救済のためのそれに他ならないだろう。ならば、女王試験は最初から、本来の目的に加えて、その力を生じさせるために設定されたのだろうか。別宇宙の力をどのように用いるのか、それが可能なのかまではわからないが。
「どうした、リュミエール」
ジュリアスが聞いてきたので、水の守護聖は考えを端的に伝えた。
「なるほど、それならば説明がつきます。宇宙間での力の移動は不可能とされていますが、陛下には何かお考えがあるのでしょう」
大きく頷くパスハの横で、光の守護聖が表情をいっそう引き締める。
「だが、女王決定の瞬間にならねば、その力は生まれない──急ぐぞ、一刻も早く育成をさせ、試験を終わらせるのだ」
三人は一層足を速め、まもなく回廊室に着いた。
竜族の青年が最初に室内に入り、調整用の装置の前に立つ。だが次の瞬間、その口から狼狽の叫びが上がった。