水の章4−58
58.
宮殿の内部が、影を帯びたように色をくすませている。窓から見える空も鉛色に濁り、その下の木々さえ半ば葉を枯らしている。見渡すかぎり人の気配はなく、時折吹き降りる風のほかには音も聞こえてこない。
どうしたのかと思いながら廊下を進んでいると、不意にリュミエールは、周囲をくすませているのが、壁を覆う汚れと疵なのに気づき、愕然とした。
(まさか宮殿に、このような……)
宇宙のどこよりも尊いはずのこの場所で、いったい何が起きているのだろう。侍従や衛兵たちは、どこに行ってしまったのだろうか。
戦慄を覚えて足を速めても、人の姿が全く見つからない。がらんとした巨大な空間が、次第に廃墟のように思われてくる。手足が冷たくなり、全身から力が抜けていく。
時の流れから取り残された白亜の遺物。生ある者が去って久しい沈黙の館。廊下を巡る自分も、あるいは旧い亡霊に過ぎないのかもしれない。遥かな栄華の記憶を繰り返し反芻しながら、足を止める事も外に出る事も叶わず、永遠にさまよい続ける……
(──いけない!)
リュミエールは、暗い幻から意識を引き戻した。
何を考えているのだ、ここは他ならぬ聖地、他ならぬ自分が働き続けてきた宮殿ではないか。歴代の女王と守護聖たちが宇宙のために務めてきた、そして、これからもずっとそうであり続ける、輝かしい場所ではないか。
重い空気を無理に吸い、息をつく。
もう少しで、終末に心を取り込まれるところだった。最も安全であるはずの聖地が、こうも危険になっていようとは思ってもみなかったが、試験の場を他に移さなければならなかった事情が、今は痛いほど理解できる。
(それにしても……)
ここに来た目的を改めて思い出し、リュミエールは焦りを覚え始めた。
こうなれば一刻も早く、ジュリアスを見つけなければならない。自分よりよほど弱っている光の守護聖にとって、今の聖地は危険すぎる。
光の執務室には鍵が掛けられ、誰もいないようだった。守護聖が飛空都市に行っている間でさえ、侍従が詰めているはずなのに、いったいどうした事だろう。そして、部屋の主はどこに行ってしまったのだろう。
廊下に立ち尽くしていると、ようやく大階段の方から、誰かが歩いてくるのが眼に入った。ひときわ大柄な体躯に、暗い緑の髪。昨日聖地に来ていたパスハが、まだ留まっていたのだ。
こちらに気づいた竜族の青年が、大股に歩み寄ってくる。
「リュミエール様。聖地に来られていたのですか」
「ええ」
安堵の息を漏らすと、水の守護聖も足早に相手に近づいていった。
「ここはいったい……いえ、それより、ジュリアス様のお姿を見かけませんでしたか。私より先にこちらに向かわれたはずなのに、執務室には誰もいないようなのです」
「いいえ」
眼の前で立ち止まると、パスハはいつもの厳しい表情で頭を振った。
「もっとも私は、昨日からつい先ほどまで、ずっとこちらの研究院でデータを分析しておりましたので、宮殿にいらっしゃる可能性も少なくないと思いますが」
ジュリアスの行方はわからなかったが、少なくとも研究院が機能しているというのは、嬉しい情報だった。
「では、あなたの同僚たちに変わりはないのですね。誰の姿も見当たらないので、聖地中がどうかしてしまったのかと思いました」
「それは──」
冷静さの中に力強さを感じさせるパスハの声が、いつになく疲れた響きを帯びているのに、水の守護聖は気づいた。
「恐らく、お思いになったとおりでしょう。研究院の職員は皆、この終末の気に中って心身を傷め、大半が体を起こすどころか、物を考える気力さえ失って私室に閉じこもっております。比較的丈夫な数名の者たちだけで、最低限の職務だけは行っておりますが、この様子からすると、どうやら宮殿の者たちも、同じ状態になっているようです」
「そう……ですか」
リュミエールは、暗い気持ちで答えた。無理もない、自分が先刻陥りそうになった感覚に、ここに住む者たちはずっと晒され続けているのだから。
考え込んでいると、パスハの決然とした声が聞こえてきた。
「申し訳ありませんが、これから宮殿の中心部に行かねばなりませんので、失礼いたします」
「何ですって」
水の守護聖は、思わず眼を見開いた。
宮殿の中心には、女王と補佐官のための執務と居住の区域がある。そこは専従の侍女たち以外は、守護聖さえも立ち入りを禁じられているた場所だった。
「なぜ、あの禁域に」
問い返したリュミエールに、パスハは急ぎの口調で答える。
「ディア様と連絡を取る方法が、他にないからです。包み隠さず申しますが、宇宙の命はすでに最終段階に入り、生命はおろか星々も、本来ならとうに消滅している段階に入っております。今までは陛下のお力で辛うじて保ってきましたが、最新のデータから計算すると、それもあと一日足らずで限界を迎えるでしょう」
恐ろしい事実に、水の守護聖は声の震えを抑えられなかった。
「では、あなたは……」
「救済の手段があるのなら、今すぐ講じて下さるようにと、お願いにあがるつもりです。では」
竜族の青年は短く会釈し、再び歩き出した。
その時、リュミエールの頭に一つの考えが閃いた。
ジュリアスもまた、中心部に来ているかもしれない。宇宙を案じて聖地に来たのなら、それを担う女王と補佐官に少しでも近い場所にいたいと思うのが自然だろう。光の守護聖が禁域に近づくなど、通常ならば考えられない事だが、今は何が起きてもおかしくない。
「パスハ、私も行きます」
声をかけると、水の守護聖は急いで青年の後を追った。
中心と外部とを仕切る部屋に、果たして光の守護聖の姿はあった。壁に沿って置かれた椅子のひとつに座し、まっすぐ前を見た姿勢のまま、微動だにしない。
「こちらにいらっしゃいましたか、ジュリアス様!」
思わず駆け寄った水の守護聖の声に、ゆっくりと視線を巡らせる。
「リュミエール……」
拡散気味だった眼の焦点が定まると同時に、ジュリアスは慌てたように立ち上がった。
だが次の瞬間、その躯は平衡を失って大きく傾いた。
「危ない!」
急いで支えるリュミエールに、光の守護聖は焦ったように言う。
「こうしてはおられぬ。女王候補たちが、光のサクリアを依頼に来るかもしれないのだ。早く、飛空都市に戻らねば」
「それならば、もう終わりました」
水の守護聖は、宥めるように答えた。
「こちらに来る前、クラヴィス様にうかがったのですが、午前中に両方の女王候補が、いずれも今日最後の力だと言って依頼してきたそうです。ですから、この後に依頼が来る事はありません」
「……そうか」
ジュリアスは、力が抜けたように大きく息をついた。
「ならばよい。今宵のクラヴィスの放出をもって、試験は終了するだろう」
「はい」
リュミエールが頷くと、光の守護聖はその肩越しに、竜族の青年の姿を認めたようだった。
ジュリアスに差し迫った危険がないのを見て取ると、パスハは仕切りの扉に向かい、そこを叩き始めていたのだ。
「パスハは、何をしているのだ。私も先ほど、陛下のご様子を侍女から聞こうとしたが、誰も出ては来なかったぞ。それで善後策を考えようと、ここに腰を下ろし……どうやら、意識が飛んでしまったらしい」
「無理もありません、連日の激務でお疲れでしょうから」
守護聖たちが話している間に、竜族の青年はさらに強く扉を叩き始めた。その力は人の比ではなく、重厚な扉も割れそうな轟音が周囲に響き渡った。
耐えかねたのか、ついに錠の開く音がすると、年老いた侍女が姿を現した。
「これは、研究院の……しかし、ここがどのような所かはご存知でしょう」
「承知しているが、どうしても今すぐ、ディア様にお知らせしなければならない事がある。お会いできないのなら伝言でも構わないが、必ずお返事を頂いてきてもらいたい」
冷静な言葉と声の底に緊迫したものを感じ取ったのだろう、侍女は難しい表情で考え込んだ。やはり弱っているのか、顔色はひどく悪かったが、さすがに女王付きの侍女だけあって、態度には毅然としたものがある。
「これ以上待たされるのなら、失礼だが腕ずくで通らせていただく。どのような処分でも受ける覚悟だ」
パスハが業を煮やしたように言った途端、侍女は、張り詰めていた糸が切れたかのように、その場に膝を折った。
「どうぞ、お入りください……突き当りの部屋にディア様が、幕で仕切られた奥に陛下がいらっしゃるはずです。もっとも、あのご様子ではもう、何を申し上げても、気づいてさえいただけないかもしれませんが」