水の章4−57


57.

 翌日の昼食後、リュミエールが闇の執務室に行くと、クラヴィスはいつもの気だるい表情でカウチに横たわっていた。

 見慣れたはずのその姿が、たちまち胸を染めつくす。入室の挨拶を受けて頷く横顔に、視線が激しく吸い寄せられる。昨日のこの時間も、執務後の補佐の時間も、ずっと表に出すまいと努めてきた感情が、またも揺すぶられている。

 だが次の瞬間、聞こえてきた言葉は、あまりにも不穏であった。

「静かな曲を……この終焉を飾るために、な」

 宇宙崩壊が目前に迫っている恐怖と、それを回避すべく力を尽くしている女王やディアへの不謹慎さに、リュミエールは思わず掠れた叫びを上げた。

「何をおっしゃるのです!」

珍しく荒げた声に驚いたのか、部屋の主がこちらを向く。暗紫の眼差しに吸い込まれそうになりながらも、水の守護聖は懸命に相手を見返した。

 しばらくの沈黙の後、闇の守護聖は相変わらず平板な声で言い出した。

「今朝は二人の女王候補が、いずれも多くの育成を依頼してきた。この前に何をしてきたかは知らぬが、どうやら二人とも、これで今日の力を使い切ったようだ」

薄い唇が、ゆっくりと息をつき、続ける。

「……闇のサクリアは今夜、依頼順に送るつもりだが、恐らくそれが女王を決定する、最後の育成となろう。何とも大儀な巡り合せゆえ、せめての心慰めにお前の調べを聴きたいと、請うたつもりだったが」

「あ……」

それでは先刻の言葉は、試験の終わりを指していたのか。誤解に気づいたリュミエールは、急いで謝ろうとしたが、その前に相手が口を開いていた。

「宇宙の終焉を……言っていると思ったか」

「申し訳ありません。勘違いから、失礼な事を申し上げて──」

「時が時だ。やむを得まい」

気分を害した様子もなく謝罪を遮ると、クラヴィスは思い出したように続けた。

「そういえば二人とも、これも示し合わせたかのように不安そうな顔で、ディアの居場所を尋ねてきた……聖地にいるはずだとしか、教えてはやれなかったが」

 少女たちの表情が容易に想像できて、水の守護聖は胸が痛んだ。二人の運命が決まろうという、まさにその時になって、いつも親身に相談に乗ってくれていた補佐官がいなくなってしまったのだ。ロザリアもアンジェリークも、どれほど心細い思いをしている事だろう。

「ディア様が、早く戻られたら……戻れるようになられたらいいのですが」

「宇宙が救済されるまでは、聖地を離れられまい。とはいえ、試験の終了までには完了すると言っていたのだから、どのみち明日には結果が出ていよう──全ての、な」

切れの長い双眸を再び閉ざしながら、部屋の主は低く続けた。

「いずれにしろ、我らにできるのは、そして為すべきはただ、この一日を何とかやり過ごす事だけだ。せめて、美しい調べを助けとして」

「はい……」

リュミエールは近くの椅子に腰を下ろすと、竪琴を構えた。

 試験に関わった全員、中でも宇宙の終焉について知らされた者たちにとって、今日という日はどれほど長く感じられるだろう。とりわけ、自らの育成によって女王が決定することになったこの方にとっては。

 女王交代の兆しが現れてからの様々な出来事を思い出しながら、そしてまた、クラヴィスがどのような心境でいるのか思い遣りながら、水の守護聖は音を紡ぎ始めた。



 昼の休憩時間が終わってから、リュミエールは王立研究院に向かった。これが最後となるかもしれないが、両大陸のデータをもう一度確認したかったのだ。

  研究院の前で馬車を下りると、次元回廊室への通路の前に、見た事のある侍従が立っているのが眼に入った。確か、光の執務室で働く者だったはずだが、なぜこのような所にいるのだろう。ジュリアスに何かあったのではと、不吉な予感がよぎる。

「ジュリアス様のお部屋の方ですね。どうかしたのですか」

「ああ……リュミエール様」

水の守護聖に声をかけられたのに気づき、侍従は転がるように駆け寄ってきた。

「先ほどジュリアス様が、聖地の状態が気になると仰って、お一人で向かわれてしまったのです。しかし回廊室の職員によれば、今あの中は、守護聖様方であっても通りづらい状態になっているとか。あのようなお体でご無事かどうか、案じられてなりません」

「次元回廊、ですって」

前回通行した時の事を思い出して、リュミエールはぞっとした。 あの不快感が、ディアが女王を助け始めたせいで発生したのだとしたら、宇宙救済の最終日となるはずの今は、より増大していてもおかしくない。消耗しきっている光の守護聖にとって、安全な通行とはとてもいいがたいだろう。

「わかりました。私が今から、ご様子を見に行きましょう」

言いながら頷く水の守護聖に、侍従は安堵と感謝の表情で礼をした。



 回廊室に入ると、機械を調整していた職員が、疲れた表情で顔を上げた。回廊内の制御が弱まったために、きっとこの装置もうまく作動しなくなってきているのだろう。

「リュミエール様、聖地に向かわれるのでしたら、どうぞご注意ください。ご存知かとは思いますが、ここ数日、内部がかなり不安定になっておりますので」

「ええ。少し前に、ジュリアス様も通られたのですね」

「はい、ご気分が優れないようでしたので、急用でなければとお止めしたのですが……」

顔を曇らせる職員に、リュミエールは労うように微笑んだ。ただでさえ意志の強い光の守護聖が、サクリアに強く支配されてしまっているのだ。とうてい、誰にも止められるものではない。

「あなたの責任ではありません。ジュリアス様の事は、私に任せてください」

声をかけると、水の守護聖は回廊に踏み出した。



 前回など比べ物にならないほど、そこは侵入者を拒む空間と化していた。五感のどれに帰すともつかない衝撃が、精神と肉体の双方に食い込んでくる。少しでも気を抜けば、引き裂かれ、消滅してしまいそうな危険を覚える。

 本来なら行き来できるものではない次元間を移動しようというのだから、ディアの力による制御が弱まった今は、何が起きても不思議ではないのかもしれない。

(このような所を……あのジュリアス様が……)

光の守護聖に思いを巡らせると、しかしリュミエールは僅かに衝撃が耐えやすくなったように感じた。他人を思う気持ちが、却って集中を高めたのかもしれない。

 とはいうものの、出口に達するには、通常の幾倍もの時間と労力をかけなければならなかった。



 そして、ようやくたどり着いた聖地もまた、尋常ではない空気に満たされていた。


水の章4−58へ


ナイトライト・サロンへ


水の章4−56へ