水の章4−56


56.

 夢の守護聖が立ち去ると、室内にいつもの静寂が戻ってきた。

 リュミエールは改めて部屋の主に話しかけようと向き直ったが、途端、ロザリアの表情が鮮やかに脳裏に蘇ってきてしまった。

「リュミエール……?」

動揺が顔に出たのか、訝しげに呼びかける声がする。

 あれは見間違いだったかもしれないと、心中で自分に言い聞かせても、乱れた心が収まらない。諦めがもたらしてくれたはずの平常心は、いったいどこに行ってしまったのだろう。

「……申し訳ありません、出直してまいります」

なけなしの気力を振り絞ってそれだけ言うと、水の守護聖は逃げるように部屋を出て行った。失礼な事をしているのはわかっていたが、他にどうしようもなかったのだ。




 まっすぐ自室の机に戻ると、リュミエールは片手で胸を押さえて、気持ちが落ち着くのを待った。

 だが、動揺の収まった後に現れたのは、平穏ではなく、心をかき乱した元の感情だった。不安と憤りだった。まるで、大切な物を奪われようとしてでもいるかのように、それらが止めようもなく湧き出してきているのだ。

(私は……)

水の守護聖は、愕然とした。

 このような感情が、動揺を引き起こしていたのか。だが、どうしてなのだろう。仮に、ロザリアの裡に特別な想いがあったとしても、それが自分から何かを奪う事になど、なるはずがないではないか。闇の守護聖の何ひとつ、一片たりとも自分の物ではないのだから。わかっているはずだ、あの方の身も心も、言葉も行動も、その動悸の一つにいたるまでも、別の存在に捧げられているのは──

 その時ようやく、リュミエールは自分がうかつにも、意識に上せてはならない事を思ってしまったのに気づいた。昨夜訪れた痛みが、より激しく心に襲い掛かった。

(私……は……)

細い指が執務服の布地をつかみ、きつく握り寄せる。

 諦められてなどいなかったのだ。ただそのような振りをし、偽りの平穏を求めて、現実から眼を背けていただけだ。だからこうも容易に心が乱れ、抱く理由もない不安や憤りに翻弄されてしまうのだ。

 抑えを失った想いが、いっきに胸にこみ上げてくる。押しとどめておいた慕わしさに、心が押し流されていく。今すぐにも黒衣の足下に駆け寄り、同じ想いを自分に、自分だけに向けてほしいと、そう叫び訴えてしまいそうなほどに。

(クラヴィス……様……)

声もなく呼ぶと、狂おしいほどの喜びと絶望が胸に溢れてくる。

 嵐の海に迷い出た小船のように、心が方角も上下もなく引きずり回される。砕けんばかりの激しさで叩きつけられる。あの方があまりに貴すぎるからだ。美しく、崇く、愛しすぎるからだ。

 離れた場所からならば、まだしも夜空の星を眺めるように、いくらかは落ち着いて想いを馳せられるかもしれない。だが側にいれば、とても気持ちを抑えられなくなってしまうだろう。

 自覚のなかった頃の平穏は、手の届かぬ彼方に去ってしまった。どうしたらいいのだろう。これからの日々を、どうやって過ごしていけばいいのだろう。




 その時、あたかも先刻の呼びかけに応じたかのように、闇の守護聖の名が視界に飛び込んできた。反射的に机上を見渡せば、今朝回ってきた書類の束が積まれているのが眼に入る。たまたま一番上にあったページに、他の同僚たちと並んで記されていたのだ。

“クラヴィス”

リュミエールはそれらの文字をしばらく見つめ、やがて、長い溜息をついた。




 人がどれほど苦しんでいようと、時は過ぎていく。

 危機は着実に、宇宙に迫ってきている。女王陛下……が、何らかの手を打つとはいえ、いつ自分たちの助けが必要とされるかもしれないのだ。

 今、この瞬間に、難しい判断が求められる事態が発生したら、自分には対処できるだろうか。そのために必要な沈着さを、持つ事ができるだろうか。

 思っても詮無いが、よりによってなぜこのような時に、この想いに気づいてしまったのだろう。もし動揺のあまり判断を誤り、宇宙を危険に晒すような事があったら──




 そう考えた時、水の守護聖の裡に新たな動きが生まれた。嵐のように激しくはないが、大海深く息づく流れのように間断ない強靭な想いだった。

 自分たちの、そしてあの方の愛する故郷である宇宙を、終わらせるわけにはいかない。

 青年は椅子に座りなおし、書類を手に取った。その面は疲れたように蒼ざめていたが、表情は迷いのない穏やかなものになっていた。

 一通り書類の処理が終わったら、改めて闇の執務室に向かい、先刻の非礼をわびる。執務を手伝い、請われれば竪琴を弾き、抑えられない想いを抑え続ける。この心が痛もうと血を流そうと、あの方の助けとなる事をすべて、きっとやり遂げてみせる。

 できなくとも、しなければならないのだから。




 水の執務室に小さなノックが聞こえてきたのは、それから間もなくの事だった。

「お入りください」

落ち着きを取り戻してからで良かったと、内心でほっとしながら、リュミエールは声をかけた。

「失礼します、リュミエール様」

入ってきたのは、金の髪の女王候補だった。

「育成をお願いします。エリューシオンに、水の力をたくさん送ってほしいんです」

「たくさんですね、わかりました」

答えながら、水の守護聖は朝見かけた光景を思い出していた。そういえば闇の執務室に向かったのも、元はといえばこの話をするためだった。

「今朝、大陸に下りたようですね。王立研究院でパスハと話しているのを見かけましたよ」

「あそこにいらっしゃったんですか」

少女は柔らかそうな頬を紅く染め、こくんと頷いた。

「はい。それで、望みが少し変わったのがわかったんです。この前の土の曜日には、闇の力をほしがっていたんですが、今朝になって水の力も必要だと言ってきて……だから今日は水の力、明日は闇の力をたくさん送ってあげるつもりです」

「そうだったのですか」

リュミエールは、少し驚いた。これほど短期間に、しかも以前の望みに加える形で別の力が必要とされるのは、かなり珍しい事態だ。育成も最終段階に入ると、これまでと異なる展開を見せ、先例にならうだけでは済まなくなってくるのかもしれない。

「では、あなたは正しい判断をしたのですね」

「はいっ」

アンジェリークは嬉しそうに答えたが、すぐに心配そうな表情で続けた。

「あの、さっき私、廊下でロザリアに会ったんです。それで、この事を教えてあげて、ロザリアも望みを確かめに行った方がいいかもって言ったんですけど……」

青い髪の女王候補の名に、リュミエールは一瞬ひやりとしたが、先刻のような動揺が引き起こされないのに気づいて、密かに安堵した。

「でもロザリアは、ちょっと考えてから、“ありがとう。でも、私には私のやり方があるわ”って答えたんです。私……余計な事をしたんでしょうか」

まさに試験の決着がつこうという時になお、この少女は競争相手を思いやっているのだ。微笑ましく思いながら、水の守護聖は静かに頭を振った。

「ロザリアは、あなたに言われたからといって、意地を張って判断を誤る人ではないでしょう。あなたの気持ちを受け止めた上で、自分の責任で決断すると、彼女は言いたかったのだと思いますよ」

静かに答えると、金の髪の女王候補は再び笑顔を取り戻した。

「そう言っていただけて、安心しました。ありがとうございます、リュミエール様。本当に、いつも……」

大きな瞳が、一瞬、僅かに陰を帯びたように見えたが、すぐに普段の明るい色を取り戻した。

「では、失礼します」

元気に退出していく少女の後姿を、リュミエールは微笑んで見送った。

 そして、ひとつ大きな息をついた。

 試験が終わるまで、ついにあと一日となってしまった。それまでに、自分たちの宇宙にある全ての生命が、本当に救われるのだろうか。女王……が意識をほぼ失いかけ、補佐官までもが力を尽くすとは、いったいどのような手段を用いようとしているのだろう。

(何が起ころうと……)

知らず項垂れていた水の守護聖は、意を決したように視線を上げ、闇の執務室の方角を見つめた。

(……絶対にお守りします、クラヴィス様も、宇宙も)


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