風紋の朝(あした)・8


8.



 夜の濃紺に、ようやく朝の白色が混ざり始めている。前日までの強風のためか、砂上に延々と風紋が記されているのが、その僅かな光でもうっすらと見て取れる。

 前方に浮かぶ輪郭は、ルヴァの街の外壁だ。まっすぐ歩いて行けば、小一時間で着く程の距離だろう。ディラスはホバーからルヴァを下ろすと、水筒を渡しながら言った。

「これくらいの水があれば、街までは十分だろう。気をつけて行けよ」

「本当に、お世話になりました……ディラスさんの事、街の人たちに伝えておきますから」

 男は小さく笑ってうなずくと、ホバーで走り去って行った。

 それを見送るルヴァの胸に、ディラスの言葉が響いている。

“息子はこの地を愛していた。だから、より多くを知りたくて……そうする事によって、また、より深くこの地を愛す様になっていた……”

 そこに、他の言葉も重なっていく。

“好きな人の事は、何だって知りたくなるのよ。それで、あんたに教えて貰うでしょ。そうすると、もっともっと好きになるの”

“……兄ちゃんは、どうして沢山の事を知りたいの”

 ただ、好きだから。愛しているから。知りたい理由は、それでいいのかもしれない。ディラスと従姉妹の言っている事は、別次元の様でいて、実は同じなのかもしれない。

 愛しているから、知りたい。でも、何を……?

 ニルフェンの研究書が砂に埋もれていく様を、ルヴァは突然思い出した。顔から血が退き、全身から汗が吹き出してくる。

「私は、何という事を……!」

 あの本には、ニルフェン親書の草稿の、現物が挟んであった。どんな大金を積んでも二度と手に入らないものを、父が自分を見込んで譲ってくれた宝物を、余りにも重要な歴史資料を、恐怖に心を支配された自分は、この手で闇に葬ってしまったのだ。

 許されない事をしてしまった。歴史を、学問を冒涜し、償う事のできない損傷を負わせてしまった。

「もう……私には、何を愛する資格もない。知の喜びを得る資格など、ない!」

胸の潰れそうな後悔に、ルヴァは両目を閉じて立ち尽くしていた。



 そして、ふと目を開けた時。

 彼の周囲には、先刻までと全く違う世界が広がっていた。

 これから日の昇ろうとする空は、紺でも白でもない、深く明るい青一色に変わり、地平線の高さにある、まだ目には見えない太陽が、砂の大地全体を、オレンジの光とコバルトブルーの影とに染め分けている。色彩の対比は、目に痛い程鮮やかだった。

 だが、何よりルヴァを驚かせたのは、この色の中にくっきりと浮かび上がった風紋の様子である。

 どんな風が吹き荒れたのか、幾つもの緩やかな丘陵が、彼方にある窪地を巻き込む様に取り囲み、自然の付けた無数の指跡が、全体で、その窪地の一箇所を指し示すかの様な模様を描いていた。

 広大という言葉に余る砂漠の中で、ただ一つの地点のみに視線が引きつけられる。そこにルヴァは、砂ではない何かを見た。

 塵にも満たない黒い点に、少年は全力で走り寄って行く。そして、その正体がはっきり分かる所まで来ると、彼は驚きに息も止まりそうになった。

 震える足を踏みしめて近づき、そっと拾い上げる。

「ニルフェン研究書……親書も挟まったままだ……」

 少年は、本を抱きしめた。

「何という奇跡……私を……許してくれるんですか……」

 グレーの瞳から、涙がこぼれ落ちる。ルヴァは心の底からこみ上げてくる思いを、われ知らず言葉にしていた。

「もう、迷いません。私は知りたい。そして、愛したい……何もかも、恐れる事無く」

 ニルフェンの興亡を、ルヴァは思い出していた。もはや恐怖はなく、ただ悲しみだけが心を満たしている。

 彼には今、その真実がはっきりと理解できた。ヤールフェノルと名乗っていた彼の国の人々は、不完全な自分達を認める事も、愛す事もできなかったのだ。それで、行き過ぎた“改良”に救いを求め、破滅への道を歩んでしまった。

 「でも……」

 ルヴァは背後を振り返る。肩に白い鳥を止まらせた少年王の姿を、彼はそこに見た。だがその顔はもう、あまりルヴァに似てはいなかった。

「……あなたは、最後にようやく、愛する事ができたんですね。自分の国の人々、そして、それ以外の人々までも」

 穏やかにこちらを見つめる王に向かって、彼は言葉を続けた。

「そう、私にはやっと分かりました。あの親書は、狂気や執念から書かれたんじゃない。あなたはヤールフェンの過ちを認め、そして、同じ過ちを誰にも繰り返させない教訓となるために、自国と他国、そして後世への愛ゆえに……あえて、祖国に永遠の恥と悲しみを負わせたのだと」

 王は微笑み、白い鳥を慈しむ様に撫でると、次第に、空気に溶け込む様に消えていく。

 ルヴァはニルフェン親書を本から取り出して、じっと見つめた。

「愛しています、ニルフェノル、あなた方を」

 胸の中に、言い様のない感動が沸き起こっている。彼らを知って良かった。考えて、悟る事ができて良かった。

 それらは、何と大きなものを自分に与えてくれるのだろう。幻滅や恐怖、悲しみさえもその一部に過ぎない、愛という幸福を、知はこれ程にもたらしてくれる……

 彼は顔を上げ、射し始めた陽の中に消えていく星々の輝きを見た。危険な種を含め、表には見えない幾種類もの生物の棲む大地を見た。一日の始まりを告げる煙の立ち昇る街を見た。

 全てが愛しく、心に近く感じられる。身近なものから、遠い世界、遠い時代の事物に至るまで。世界に存在する、全てのもの、かつて存在していた、あらゆるもの、人、思想、それら全てを知りたい。知って、もっと愛したい。そしてもっと知って、愛して……

 ルヴァはもう一度ゆっくりと空を仰ぎ、叫んだ。

「偉大なる知、大いなる愛よ。あなたのために、私はこの一生を捧げます!」

 その時少年は、心の中で、何かが弾けたのを感じた。



 砂漠から戻ってきたルヴァに、それまでと特に変わった所は見受けられなかった。彼は相変わらず穏やかで、少しのんびりした少年だった。ただ、ごく親しい数人だけが、その眼差しがより深く、微笑みがより優しくなっているのに気が付いていた。



 それから数ヶ月後、見知らぬ男が少年を訪ねてきた。

 恭しく一礼して差し出された書状には、女王の紋章である、神鳥の印が押されていた。


FIN
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