風紋の朝(あした)・7
7.
青い天井が見える。
石ではなく、布でできている。
清潔だが刺激のある匂いが、ルヴァの鼻を突く。醒めきらない頭で彼は、これが何の薬品の匂いなのか、考え始めていた。
「……冷却剤が、効いたようだな」
不意に耳元で聞こえた声に、少年は驚いて周囲を見回した。
自分の横たわる寝台のすぐ脇に、初老の男が座っている。彼はルヴァの額に乗せられた冷却剤(さっきの刺激臭の元は、これらしい)を外すと、
「気分はどうだ。頭痛はするか」と、聞いてきた。
ルヴァが頭を振ると、男は安心した様に微笑んだ。
「運の強い子だな、あのサソリにやられて、この程度で済むなんて」
男は、この砂漠に棲む、あるサソリの名を言った。それに刺された者は幻覚と高熱に襲われ、適切な処置が受けられないと命さえ落としかねないという、最も恐れられている種類のサソリである。
「覚えているか……お前は昨夜、このテントのすぐ近くで倒れていたんだ。砂漠にサンダルで来る馬鹿なんて始めて見たから、すぐに足を調べると、このサソリ独特の傷跡が見つかった。それで、すぐに解毒剤を打ったんだ」
「テント……じゃあ、あれは……」
気絶する寸前に、ルヴァの目に入った青い建物の正体は、このテントだったのだろう。商隊の使う様な、砂嵐にも耐えられる頑丈なタイプのものだ。
「助けて下さって、本当にありがとうございます。もし見つけて頂けなかったら、とうに生きてはいませんでした。お礼は必ず……」
「そんな事より、ちょっと起きてみろ。熱も頭痛も無ければ、もう治った様なものだ」
ルヴァは言われるまま、ゆっくりと体を起こしてみた。少しふらつくが、特に異常はない。
「大丈夫だな……やれやれ、丸一日熱は下がらないし、うわ言がひどくて、一時はどうなるかと思ったぞ。何だか、ニルフェンがどうとか言っていたが」
「あ……」
ルヴァの脳裏に、悪夢の様な体験が蘇る。
「あの、ここはニルフェン遺跡の近くなんでしょうか」
「遺跡なら、ずっと西だ。ホバー無しじゃとても行けないぞ」
少年は、黙ってうつ向いた。遺跡に迷い込んだ訳でもないとすると、やはり全ては、サソリの毒が見せた幻覚だったのだろう。父に聞いたニルフェンの話から、知るという行為に後ろめたさを感じていた自分の心が、あんな形で現れたのか……
「……少し大きいが、歩けない程じゃないだろう」
男の声に、少年は我に返った。
「ほら、わしの古いブーツをやるから、履いて帰るんだな」
「あ、ありがとうございます」
手渡されたブーツを、ルヴァはぼんやりと見つめた。履き古してはあるが、元は高級なオーダー品だったらしく、底に近い側面に、所有者の名前が刻まれている。
“ディ……ラス”
ルヴァは、思わず身を強張らせた。「ディラス!復讐鬼ディラス!」
男はじっとその様子を眺めていたが、やがて苦笑混じりのため息と共に、こう言い出した。
「その名を知っているのか。お前はやはり、あの街の者なんだな」
体が回復しきっていない上に、いきなりの恐怖に襲われて、ルヴァは動く事すらできなかった。
だが、男は危害を加える様子もなく、ただ低い声で話し続ける。
「あれからもう、十年にもなるというのにな。だが、仕方あるまい。あんな事をしてしまったのだから。その歳で、お前がどこまで知っているのか分からんが……
わしは隣の惑星で医者をしながら、男手一つで息子を育ててきた。やがて息子は風土を研究する様になり、この惑星に住み着いた。
時折息子のよこした手紙で、あいつがどんなにこの地に心を奪われていたかは知っていた。わしは本当は、息子に自分の後を継がせ、一緒に暮らしていたかったが、あいつの幸せを思って我慢していたんだ。それが、あんな事になって……
錯乱したわしは、お前の街を恨んだ。十年前のあの時は、本気でお前達に復讐するつもりだった。
だが……逃亡中に、息子の遺した日記を読んでみたんだ。そこには、この地について調べる事が、あいつにどんなに大きな喜びをもたらしていたのかが、死ぬ直前まで書き連ねられていた。
息子は、この地を心から愛していた。だから、より多くを知りたくて、調査と分析を繰り返した。そうする事によって、また、より深くこの地を愛す様になっていた。
ここまで打ち込めるものを見つけられて、あいつは、幸せだったんだと思う。なのにわしは、この地に、恩返しどころか……」
ディラスはもう一度、大きくため息を突くと、テントの窓越しに外を眺めた。星の光が鈍くなっているのは、夜明けの近いせいだろう。ルヴァが街を出たのが夕方だったから、丸一日と一夜が過ぎてしまっている。
「……その罪滅ぼしと、息子の幸せに報いるために、わしはこの地に移り住み、こうして砂漠の医者となった。商隊や旅人、お前の様な迷子など、砂漠で医療を必要とする者は意外と多いと、息子の記録にあったのでな」
「ディラスさん……」
ルヴァは寝台に起き直り、恩人の顔を見つめた。悲しげで自嘲混じりながら、どこか清々しいその表情が、こちらを向いてふと緩んだ。
「あの街の者なら、礼など受け取れんな。さて、日が昇る前に、ホバーで送って行ってやろう……例の事件はもう時効だと聞いたが、それでも街の連中には見つかりたくないんでな、壁の見える辺りで勘弁してくれ」