はじまり・3
沈黙を破ったのは、遠くから響く鐘の音だった。
「……おやおや、とんだ長話をしてしまったようだ。僕は失礼しますよ、クラヴィス様」
怪訝そうに相手を見つめていた感性の教官は、曇りを払うように眉を軽く上げると、花崗の路を一人、歩き去っていった。
(なぜだ……?)
闇の守護聖は、心の中で問うていた。
東屋の青いガラスに、優しい面差しが重なって思い出される。
憎悪をぶつけられても、恐怖や怒りより、まず相手の心を悲しいと思ってしまうリュミエール。彼の中では、無への志向に同調しそうなこの自分もまた、悲しい存在と捉えられているのかもしれない……
考えながら、いつか歩みを進めていたクラヴィスは、花崗の路を飾る花々の中に、誰かのドレスを思わせる甘い紅色を見出した。
アンジェリーク。
他人の考えをきちんと吸収した上で、更に自分で再考して前向きな決断を下す、栗色の髪の女王。育成という戦いに、憐れみという情を意義として見出した今、もはや迷う余地もない強さを、彼女は身につけた事だろう。
それに……
顔を上げ、アルカディアの宮殿地区を望むと、ガラス張りの建物が、午後の陽射しに煌めいているのが目に入った。
……セイラン。
立場の違いを物ともせずに、挑発的な言葉を掛けてきた感性の教官。理由はどうあろうと、彼もまた宇宙のために真摯に戦おうとしているのが、その声の響きから伝わってきた。
ここで、闇の守護聖はふと歩みを止め、再び自らに問うた。
(なぜ……だ?)
これほどに、他の者の心に思いを馳せるのは、なぜか、と。
以前は、明らかに違っていた。
周囲の者たちの考えなど知りたくもなかったし、聞かされる機会があっても、それらは彼にとって、理解の範疇を越えていた。
なのに今、ただセイランの話を聞いただけで、リュミエールの悲しみを、あたかも自分のものであるかのように感じ取っているではないか。
そう気づいた動揺の中で、更に顧みれば、いつか自分の心はアンジェリークの、そしてセイランの感情までも、推し量ろうと考えを進めている。
好ましいものとして。理解すべきものとして。
(執着……しているというのか、この私が?)
宮殿地区に戻りながら、クラヴィスは否定的に問うてみた。
だが同時に、それが脆い躊躇でしかないのも悟っていた。
彼は感じていた。
降り注ぐ陽射しの温かさを、海原から吹き寄せる風を、草や花、木々の息吹を感じていた。
行き交う人々の声に、動作に、彼らの生命を感じ取っていた。
いつの頃からか、感じられるようになっていたのに、気づいていなかったのだ。
静かに歩みを進めていく、その一歩ごとに、いつか自分が周囲を受け入れていたのだと知らされていく。
あの芸術家が言っていたように、感じる事から認識と愛が始まるのなら、いつか自分もこの宇宙を愛する事ができるのかも知れない。
そして、そこに在るものたちをも。
星見の塔を振り返ったクラヴィスは、今は青に隠された星空に向かって呟いた。
「そうか、私に“無”を拒ませたのは……拒ませてくれたのは……」
闇の館に戻ると、王立研究院からの書類が届いていた。
“諸データを分析した結果、闇と水のサクリアを合わせ、一層効率の良い育成を図る事が可能となったようです……”
昨日までの自分であれば、無視していたかもしれないその報告を丹念に読み終えると、ちょうどアンジェリークが訪れた。
青緑の目に揺るがぬ意志を見せて挨拶する少女に、クラヴィスは穏やかに頷き返す。
闇と水の力を受けた建物が、初めてエレミアに出現したのは、その直後の事だった。
FIN
00.12