はじまり・2


 塔から外に出ると、目眩がするほどの陽光が全身を包む。

 逃れるように東屋に向かった彼は、そこで見覚えのある姿と出くわした。

「おや、クラヴィス様。星見の塔からの帰りですか」

 感性の教官セイラン。

 女王試験の頃から、その年齢に似合わぬ洞察力を見せていた彼は、年月を着実に消化し、一層深い人物に成長しているようだった。

 かつては鋭さばかりが目立っていた眼差しにも、諦観と度量とを身につけた者特有の、仄かな憂いが現れている。

 だが今、その繊細な面には、呆れながら面白がっている表情が浮かんでいた。

「相変わらずですねえ、あなたは。あんな地震の翌朝だというのに、塔に昇るなんて」

「……地震……そうか」

 余震が起これば、高い塔の上は危険が大きい。先刻、誰も最上階にいなかったのは、恐らくこのためだったのだと、クラヴィスは初めて気づいた。

「聞きましたよ、“霊震”でしたっけ、あれを起こした意志の事」

 飾りガラス越しに塔を見つめていた紫の瞳が、その言葉に鋭く向き直る。

 若き芸術家は、口許だけで微笑んでいた。

「全てを無に、というのが敵の目的だそうですね……どう思われます?」

 闇の性質を知っているだけに、その穏やかな語調には、容赦のない響きが籠もっていた。

 白皙の面に何の表情も現さぬまま、クラヴィスが聞き返す。

「……それを知って、どうする」

「別に。ただ、相手はかなり手強そうだから、全員が心を合わせる必要がありそうだと考えただけですよ……そう、万が一にでも、敵に同調して迷いを生じるような人がいたら、大変な迷惑でしょうね」

 交錯する二人の視線は、既に険しい色に変わっていた。

「“心を合わせる”……か。その様な言葉を、お前から聞こうとはな」

「似合わないのは、自分でも分かっていますよ」

セイランは、苛立たしげに髪をかき上げた。

「でも、全てを無にされるなんて、もっと嫌ですからね」

「ほう……」

 常に他者から距離をおいているように見えるこの芸術家は、一体どの様な考えで宇宙を大切に思っているのだろうか。

 興味を引かれたクラヴィスは、相手が言葉を続けるのを待った。

「だって、それは芸術を、感じ表現するこの喜びを、終わらせる事になる。そんな事、僕は誰にも許すつもりはありませんよ」

「ふっ……」

 いかにもセイランらしい憤り方に、闇の守護聖の唇から、微笑の息が漏れる。

 青年は、肩を軽く竦めた。

「宇宙愛のため、とでも言っておけば良かったのかな?まあ、同じ事だと思いますけどね。感じるというのは存在を認める事だし、愛はそこからしか始まらないのだから……」

 言葉を切ったセイランは、ふと何かを思い出したように付け加えた。

「……けれど、動機は人それぞれでいいでしょう。恐怖でも怒りでも、たとえ憐れみであっても、そこから敵と戦おうという気持ちが発しているのなら」

(憐れみ……?)

 意外な言葉に、クラヴィスの切れの長い目が、心持ち眇められる。

 その肩を掠めるように、一匹の蝶が東屋に入り込んでくると、中央に植えてある花の間を巡り始めた。

 止まっては飛び立ち、また舞い降りていくその動きが、糧を得ているのか戯れているのかは知れず、ただ薄い花弁や柔らかな茎葉が次々と揺れ始める様子に、二人は暫く無言で見とれていた。

 やがて藍色の髪の青年が、視線を蝶に向けたまま、静かに話し出す。

「アンジェリークから聞いたんですが、昨夜、銀の大樹の下にいたリュミエール様は、敵から憎悪の言葉を投げつけられた時、その存在に悲しみを覚えていたのだそうですよ」

 手すさびに花弁に触れようとしていたクラヴィスの指が、空中で静止する。

 それをどう受け取ったのか、セイランは再び微笑を浮かべ、続けた。

「全く、あの方は……皮肉抜きに、大したものだと思いますね。その上、アンジェリークも“この悲しみを終わらせるためにも、もっとエレミアを育成しなければならないんです”なんて言いだすし……ああなると、彼女は強いですからね、きっと今までよりずっと、育成速度は速まるでしょう」

 話し終えると、セイランは黙って相手の反応を待った。

 だがクラヴィスは何も答えず、ただ呆然と、足元の花々を見つめているのだった。




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