大切な日・3


1.


 この地に来てから三冊目となる暦を、ゆっくりと指で辿っていく。

 ただそうしているだけで、淡い不安と、それよりずっと大きな喜びに、胸が一杯になっていくのが自分で分かる。

 大切な日を祝うための、計画と準備と悩みの時期が、また巡ってきたのだ。




 十月中旬の金の曜日、夕食をすませたリュミエールは、窓辺に置かれた演奏用の椅子に坐ると、竪琴を手に取った。

 自分で選び、編曲した祝い歌を奏でながら、その日のための準備に思いを馳せてみる。

 もう一つの贈り物として、材料から色柄まで指定して誂えた上掛け用の布は、それを包むべく手配してある紙やリボンと共に、ほどなく届けられる事になっている。

(あとは……もし叶う事ならば……)

祝い歌の旋律にのせて、碧い瞳が、憧れるように虚空を見上げる。

 祝う気持ちを、演奏や贈り物だけでなく、宴という形でも受け取ってもらえたなら。自分が緑の館で祝ってもらったように、彼の人の誕生を祝福する席を設けられたなら。

 人の集まる場が苦手だとしても、せめて差し向かいの晩餐で祝う事ができたなら。

(けれど……)

細い指が、向かうべき弦を見失ったかのように、ふっと動きを止める。

 補佐官に聞く限り、そのような祝いは一度も行われた事はなく、本人が望む様子もなかったという。

(……迷惑だと思われるでしょうか)

 確かめもせず諦めるのは良くないと思いながら、気分を害されるのを恐れて言い出せないまま、今日まで時が経ってしまった願い。

 明日はまた、闇の館をお訪ねする事になっている。その時に、言い出せたらいいのだが……




 そこまで考えた時、急に玄関の方から、慌ただしい足音が聞こえてきた。

「リュミエール様、失礼いたします」

家僕の一人が、居間の入り口で一礼すると、静かに告げた。

「お客様がいらっしゃいました。緑の守護聖カティス様、地の守護聖ルヴァ様、それに、夢の守護聖オリヴィエ様のお三方です」

 青銀の髪の若者は、驚いたように眼を見開くと、竪琴を置いて立ち上がった。




 間もなく姿を表した三人は、それぞれ少しずつ異なった笑みを浮かべていた。

「すまないな。こんな時間に押し掛けて」

と言うカティスは、相手を気遣いながらも、どこか興を覚えているような笑顔。

「あー、本当にすみませんね。どうしてこういう事になってしまったのやら、私にもよく分からないんですが……」

と頭を下げるルヴァは、困惑しきった弱々しい微笑。

 そして最後の一人は、完全に状況を面白がっているらしく、楽しそうに笑いながら挨拶してきた。

「ハーイ、リュミエール。お疲れの所悪いんだけどさ、この迷える二人の先輩たちに、あんたの優しさを、ちょっとだけ分けてあげてほしいと思ってね」

「はあ……」

艶やかな夢の守護聖のウィンクを受けた若者は、呆気に取られた表情で、ただ頷いた。

「あの、とにかくお掛け下さい。お飲み物は紅茶で宜しいでしょうか、それとも何か、お好みのものがありましたら……」




 全員が紅茶を希望したので、それが入るまでの時間を使い、オリヴィエが成り行きを説明した。

「ほら、この間、ルヴァん家で私の誕生祝いをやってくれたじゃない。あの時、カティスが持ってきてくれたワインが忘れられなくてね、週末だし、きっとこれは一本空けてるに違いないと思って緑の館を襲撃したら、意外にもこの人が来ていたんだよ」

と、隣に坐る地の守護聖を指す。

「けれどオリヴィエ、私は飲みに来ていたんじゃありませんよ……」

「そりゃそうでしょ、ほっとんど下戸なんだから」

口を挟んだルヴァを軽くいなすと、夢の守護聖は話を続けた。

「で、大の男がアルコール抜きで何やってるのかと思ったら、クラヴィスの誕生祝いの相談だって言うじゃない。それも、前例がないとか、本人がどう思うかとか、リュミエールの意向も確かめようとかって、聞いてても訳が分かんないからさ、お節介半分、野次馬根性半分で“じゃあ、とっとと確かめに行ったら?”って、連れて来ちゃったわけ……ん、いい香り」

 熱い紅茶がカップに注がれるのを見ながら、美を司る青年は嬉しそうに眼を細めた。

「私はストレートでいただこうかな」

「どうぞ。カティス様もルヴァ様も、お砂糖やミルクはどうなさいますか……」

 まだ当惑の残る、だが穏やかな微笑で客たちに紅茶を誂えると、水の守護聖はあらためて座り直した。

「それで、クラヴィス様のお誕生祝いについての、私の意向……ですか?」

味わうようにゆっくりと紅茶を含んでいたカティスが、真面目な眼差しで頷く。

「ああ。実はな、俺も他の仲間たちもずっと、あいつには何か近寄りがたいものを感じて……まあ他にも色々とあったせいで、つい距離を置くようになっていたんだ。だからお前が来るまで、俺の知る限りでは、あいつは誕生祝いの類を一切してもらった事がない。仲間として、祝ってやりたい気持ちが無かった訳じゃないんだが」

 香り高い湯気の中、静かに息を付いたルヴァが、後を引き取る。

「けれどね、リュミエール。あなたがクラヴィスの側にいるようになって、ようやく私たちも、あの人に近づいていく勇気が出てきたんですよ。だから……便乗するようで申し訳ないんですが、今年からは私たちも、あの人をお祝いできないものかと思いましてね」

「よく分からないけど、とにかくそういう訳で、この人たちはあんたがどんなお祝いをするつもりなのか、教えてほしいんだってさ。何なら一緒にお祝いしてもいいし、別でもいいし、とにかく恩人のあんたの意向を最優先にしたいからって」

話の最後を引き継いだオリヴィエは、そう締めくくると、美味しそうに最後の一口を飲み干した。


 青銀の髪の若者は、碧い眼を見開いて三人を見つめた。

 大方想像のついていた事とはいえ、闇の守護聖のこれまでの有り様の、あまりの寂しさに、しばし茫然としてしまったのだ。

 だが、ルヴァやカティスの声に、長い時間を迷いながら過ごしてきた苦さを感じ取ったリュミエールは、あえてそれに触れるのは止めて、温かく微笑んだ。

「クラヴィス様をお祝いするお仲間が増えて、嬉しいです。今のところは、お祝いの演奏と上掛けの贈り物を用意してありますが、まだ祝宴や祝餐といった事は……今年こそ開いて差し上げたいと思いながら、なかなか言い出せず、今日まで来てしまいました」

「ふうん、あんたでもそういう事があるんだ」

少し意外そうに、夢の守護聖が呟いた。

「それはそうでしょうねー。何しろ、クラヴィスが人の集まる所を嫌うのは、ずっと前から一貫していますから」

穏やかに補足するルヴァの隣で、カティスが考え込むように頷いた。

「なるほどな、じゃあ俺たちは、それ以外であいつが喜びそうな物を考えてみるか……といっても、これがなかなか思いつかないんだが」

「はあ……私もです」

地の守護聖が、肩を落としながら相づちを打つ。

「大変だねえ。何だか因縁あり過ぎみたいだから、私は今回パスさせてもらうけど」

そこまで言うと、野次馬にも飽きたのか、オリヴィエは居間の中を見回し始めた。

「ねえねえ、窓の所に椅子と竪琴が置いてあるけど、いつもあそこで弾いてるの?」

「ええ、あの椅子が演奏するのに一番具合が良く、疲れにくいのです。宜しかったら、一曲お聞かせしましょうか」

「いいね、聞かせて」

美しさを司る青年が嬉しそうに答え、緑と地の守護聖も頷いたので、リュミエールは立ち上がった。




 窓辺の椅子に体を移すと、夜気に冷えた竪琴を丁寧に構える。

 漆黒の空に咲く星々のように、静かな時間を彩る優しい響きが、その指先からゆるやかに流れ始めた。



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