大切な日3・3
3.
淡く美しい色の包装を破ると、中から、しなやかな大判の布が現れた。
「上布として使われても、お寝みの時に掛けられてもいいように、と思いまして」
繊細な若者の面が嬉しそうに、だが微かに不安そうに微笑んでいる。
優しい声で添えられた言葉に従い、例しに肩に掛けてみると、その薄さと軽さからは想像もできないほど温かい。黒衣や暗色の内装に合うよう色彩は抑えられているが、よく見ると、とても細かい細工で模様が織り込んであるのが分かる。
よくこれほど自分の好みに合う物があるものだと、不思議に思いながら、クラヴィスは布を外し、答えた。
「……分かった」
これから用いる事にしようという、ただそれだけの意味しかない返事に、リュミエールは儚いほど幸福そうに微笑んだ。
「ありがとうございます……お誕生日、おめでとうございます!」
もう三度目ながら、これほど嬉しそうに祝福されると、やはりもっと言葉を足した方が良かったのではという気持ちになる。
だが、何を言ったらいいのか分からないまま、クラヴィスは食堂へと案内されていた。
夕食は、贅を尽くしたものだった。
食材の希少さや高価さを度外視し、調理の手間も際限なく費やして、何もかもがクラヴィスの好みに合わせてあるのはもちろんの事、控えめな華やぎの中にも祝福の気持ちが表れるよう、色彩や香りにまで細心の注意を払って用意されている。
それに使用人たちも、普段よりいっそう心を配って、準備から給仕までを務めているようだ。
もっともクラヴィス本人は、そのような事を意識した訳ではなかった。ただ、今宵は妙に料理が口に合うと思いながら、普段よりはるかに旺盛な食欲――それでもやっと人並みというレベルだったが――を示したのが、リュミエールや使用人たちにとっては、何よりの労いとなっていた。
やがて食事が終わると、水の守護聖は客を居間へ誘い、窓辺の椅子に腰を下ろした。
「お昼にも聞いていただきましたが、もう一度祝い歌を弾かせていただけますか」
しかし黒衣の守護聖は、頷く事もなく、ただ切れ長の双眸を見開いて、館主を見つめている。
「……クラヴィス様?」
相手の様子に、通常と違うものを感じた若者は、不安そうに呼びかけた。
すると、徐に闇の守護聖は立ち上がった。
「館に戻る……お前も来い」
「は、はい」
「竪琴も忘れるな」
滅多に急いだ事のない人の勢いに気圧されたリュミエールは、ただ言われるままに楽器を携え、後を追っていった。
その頃、緑の守護聖の館では、ルヴァとオリヴィエを招き、“クラヴィスの誕生日祝いができた祝い”と銘打った臨時の小宴が開かれていた。
ウーロン茶を手にした地の守護聖が、穏やかな笑顔で言う。
「あー、今頃はクラヴィスも、水の館でお祝いしてもらっている頃でしょうか。もしかしたら、私たちの贈った“あれ”の事が、話題になっているかもしれませんね」
「そうだな、昼間のうちに闇の館に届くようにしておいたから」
何本目になるか分からないワインを開けながら、カティスも朗らかに答えた。
「驚かそうと思って、宮殿では何も言わないでおいたが、晩餐前に一旦帰宅するだろうから、その時に見ているはずだな。もっとも“あれ”が特別な物だという所までは、気づかないかもしれないが」
「いただきっ」
隙をみてボトルをかすめ取ったオリヴィエが、自分のグラスを満たし始める。
「いいんじゃない? 元々クラヴィスがリュミエールの誕生日に、あんなややこしいプレゼントをしたんだから、その影響でややこしい物を贈られたって、自業自得でしょ……っと、こぼれちゃうじゃない、カティス!」
「放っておくと何杯飲むか分からないだろう、お前は」
ボトルの取り合いをしている二人の傍らで、ルヴァが茶をすすり、それから言った。
「まあ、少なくともリュミエールなら、“あれ”を見れば、すぐに分かるでしょうし、私たちの感謝の気持ちも察してくれるでしょう。もちろん、クラヴィスに喜んでもらえるのが一番大切な事ですが」
「そうだな。何しろルヴァが、納品記録から製作所を調べ上げて、廃番だったのを俺が口説き落として作らせて、ようやく手に入った代物なんだから」
と言いながら、カティスは素早くボトルを取り戻す。
「おっと、塗装の事も忘れないでね。贈り主に名前こそ連ねなかったけど、リュミエールの話や闇の執務室の感じから推測して、あの色がいいって言ったのは、この私なんだよ……だからさ、アドバイス料だと思えば一本や二本、安いもんでしょ!」
負けじと他のボトルに手を伸ばすオリヴィエを、緑の守護聖が遮った。
「安いだと? お前、俺の酒を侮辱するつもりか!」
「あー二人とも、テーブルを揺らさないで下さいよ……」
緑の館のにぎやかな夜は、まだ続きそうである。
静まり返った闇の館に馬車が着くと、クラヴィスは黙したまま邸内に入っていった。
車内でも何の説明も与えられなかったリュミエールは、当惑しながらその後を付いていく。
そうして居間に入った二人の前には、見慣れない木製の家具があった。
「……夕方、宮殿から帰ると、これが届けられていた」
抑揚のない声を聞きながら、水の守護聖は、信じられない思いでそれを見つめた。
「まさか……」
緻密な木目に、張りのあるクッションを備えた、頑丈で簡素な作り。塗装の色こそ、この居間に似合う暗いものに変えられているが、目の前にあるのは紛れもなく、水の館の窓辺に置かれているのと同型の椅子である。
「やはり同じなのか、先ほどお前が竪琴を弾こうとした、あの椅子と」
問われた若者は、躊躇いながら前に出ると、隅々までその椅子を眺めた。
「はい、色以外は、製作所の印も、何もかも全て同じです。でも、一体どなたが……」
すると闇の守護聖は、座面に置いてあるカードを取り、リュミエールに手渡した。
“クラヴィス、誕生日おめでとう
闇の館でリュミエールが竪琴を弾く時には、この椅子を使わせてあげて下さい。
あなたの時間が、より豊かになるよう願って贈ります。
――カティスとルヴァより”
メッセージを読み終えた水の守護聖は、当惑しきった表情で言った。
「これは……確かに先日、私はカティス様とルヴァ様の前で、あの椅子が一番演奏しやすく疲れにくいとお話ししましたが……」
「お前が演奏しやすい椅子……より豊かな時間……?」
クラヴィスは、溜息と共に結論付けた。
「ではこの椅子は、お前に長く良い演奏をしてもらうための、贈り物なのか」
リュミエールは、居たたまれない思いで聞いていた。
酒でも本でも、他に幾らでも、闇の守護聖が喜ぶ物はあるだろうに、先輩たちはいったい何を考えて、もはや入手も難しいはずのこの椅子を――誕生日の当人ではなく、この自分が演奏しやすいという以外には、何の特色も無い物を――わざわざ贈り物に選んだのだろう。
(分からない……)
混乱と、ふたたび黙してしまったクラヴィスの不興を恐れる気持ちから、若者の面はいつか俯いてしまっていた。
しかし、次にリュミエールの耳に届いた声は、不機嫌というよりはむしろ、その逆に聞こえる響きを伴っていた。
「お前といい、カティスやルヴァといい……どうしてこうも、私の喜ぶ物が分かるのだ」
「……クラヴィス様?」
驚いて見つめる水の守護聖の脇を通り抜け、クラヴィスは、手ずから持ってきた上掛けの布と共に、愛用のソファにに身を沈めた。
「それは、お前の椅子だ。どこでも好きな所に置いたら、祝いの歌を聞かせてくれ」
「は……はい!」
繊細な面を紅潮させながら、リュミエールは答えた。
それから急いで居間を見渡し、安楽椅子から少し離れた斜向かいに“自分の椅子”を運ぶと、携えてきた竪琴を奏で始めた。
華奢な中に強さを秘めた指先が、優しく美しい音色を紡ぎ出す。
大切な人がこの世に生まれ、ここに在る事を祝福するための、厳かで温かい旋律が、美しい和音を伴って、暗色の居間を包み込んでいく。
幾度もの練習を重ね、今日の昼休みにも奏でられたその調べは、しかし今、それまでになかったほどの幸福感に満たされていた。
(“喜ぶ”……)
闇の守護聖の口からそのような言葉を聞いたのは、初めてだったのではないだろうか。
しかも、上掛けと木の椅子――リュミエールの贈った物と、その演奏を助ける物が、共に喜びをもたらすと、そう言ったのだ。
若者は聴き手に気づかれないよう、そっと唇をかみしめた。
そうしなければ、彼自身の喜びのために、指が震えてしまいそうだったのだ。
FIN
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