雨の痛み
1.昼の雨
緑豊かな広い庭と清らかな流れに囲まれた、瀟洒な淡青色の『水の館』。
主の人となりを映したようなその姿は、深い森の湖水に憩う白鳥にも似て、美しさのみならず、眺めるだけで心を穏やかにしてくれる優雅さをも備えていた。
ある薄曇りの土の曜日、リュミエールは、スケッチする場所を求めて私邸の庭を歩いていた。
自然の美しさを活かすよう控えめに手入れされた植え込みや花壇を、芳しい香りの漂ってくるハーブ園を、行き交う蝶や蜂鳥の姿に目を細めながら、足の向くまま進んでいく。
そうしているうちに、彼はいつか、庭の一番奥にある木立まで来ていた。
午後の柔らかな陽光の中、そよ風を受けた一群の灌木が、ちょうど盛りを迎えた花を揺らしているのが見えてくる。
「……ここにしましょうか」
微笑みながらそう呟くと、水の守護聖は、灌木の前の草地に腰を下ろし、画帳を開いた。
夢中になって描き続けている間に、どれほど時間がたったのだろう。
ふと筆を止めたリュミエールは、銀青色の睫毛を静かに伏せた。
(これは……この香りは……)
「クラヴィス様、いらっしゃるのですか」
呼びかけながら振り返れば、陽光を裂くかの如き漆黒の髪に黒衣、まさに闇の守護聖その人が近づいて来る所である。
青年は、絵筆を置く間も惜しそうに立ち上がると、いそいそと来客を出迎えた。
「研究院のご用が、早く終わったのですね。館の者に言付けて下されば、すぐ参りましたのに……」
「絵を描いていたか。邪魔をしたな」
「いいえ。いらして下さって嬉しいです」
深い海の色をした瞳が、突然の夏を迎えたように輝いているのを認めると、日ごろ表情に乏しいクラヴィスの眼差しにも、温かな色が広がっていく。
黒衣の袖がゆっくりと上がり、暗い色の爪を備えた白い手が、青銀の髪を梳きながら引き寄せる。
されるがままに近づいてきた優しい面に、挨拶というには些か濃厚すぎる口づけが落とされた……
突然、一陣の強風が吹きすぎていった。
「あっ……」
地面に置いておいた画帳が、あおられて捲れるのを聞きつけ、リュミエールが息を呑む。
その体に回していた腕をゆるゆると外しながら、クラヴィスも低く呟いた。
「風向きが変わったな……雲も厚くなっている」
水の守護聖は、急いで画材を拾い集めながら、答えた。
「雨になりそうです。館に戻りましょう」
だが、その言葉も終わらない内に、鉛色の空から、無数の滴が降り始めていた。
「リュミエール、こちらへ」
近くの大樹に移動しながら、クラヴィスが呼びかける。
「はい、これを拾ったら参ります」
青銀の髪に細かな水の粒を光らせ、青年はなおも地面にかがみ込んだまま、散らばった画材を探している。
「……リュミール!」
闇の守護聖は、苛立ったように繰り返すと、黒衣の裾を翻して恋人の下に歩み寄った。
「クラヴィス様、こちらにいらしては、濡れてしまいます……」
「お前が来ぬからだ」
驚いて立ち上がるリュミエールの手首をつかみ、クラヴィスは強引に樹下に戻っていった。
本降りとなった雨も、重なり合う葉に遮られて、ここまでは届かないようだ。
乾いた地面に立ち、ようやく一息ついたリュミエールは、想い人を見上げて謝った。
「申し訳ありません、私の不注意でこのように……御髪まで濡れてしまって」
画材を持っていない方の手が、無意識に相手の黒髪を拭い始め、そこで、はたと止まった。
「あ……」
深い海の色の瞳が、見上げた向きのまま焦点を彼方に移す。
同時に、クラヴィスの表情も凝固していた。
「……リュミエール」
暗紫の眼差しが、遠い時間を追い始めている。
意識が、共に過去へと遡っていくのを感じながら、二人は無言で見つめ合っていた。