雨の痛み・1−2
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あれは、聖地の穏やかな季節を、幾つ遡った週末だったろうか。
鬱蒼とした森のような庭に囲まれ、重厚だがどこか陰鬱な雰囲気のする邸宅『闇の館』で、クラヴィスは、憮然として呟いていた。
「どういうつもりなのだ……あの者は」
深い海の色の瞳に青銀の髪、優しい顔立ちをした水の守護聖が、就任して間もない頃から、何くれと無く世話を焼いてくる事に、彼は当惑し続けていた。
世話といっても分を弁えたもので、決して押しつけがましくはしてこないので、役に立ちこそすれ、不快な思いをした事は一度も無かったのだが、誰からも好かれそうな穏やかな少年が、何故、ろくな反応も返さないこの自分に関わろうとするのか、クラヴィスにはそれが理解できなかった。
そうして、どれほど控えめであろうと、他人の接近を自分が許しているという事もまた、理解できないでいたのである。
その少年リュミエールが、週末に訪ねてくるのも、今や半ば習慣のようになっている。
数週間前だったろうか、取るに足らないこの庭をあまりに誉めるので、それほど気に入ったのなら写生でもすればよいと口にしたのを覚えている。
そして今日、画材を携えてやってきた水の守護聖は、改めて館主の許しを得ると、嬉しそうに庭に出て行ってしまったのだ。
(週末も平日も……いつの間にか、ほとんど毎日を、あの者と過ごすようになっている)
もし、誰かにこの様な事態を予言されたとしても、自分は決して信じようとはしなかっただろう。他人と共に、長い時間を過ごすなど、いや、少しの時間でも気分を害さないで過ごすなど、到底考えられなかったからだ。
(それが、今は……)
室内に移した切れの長い眼差しが、つい先刻まで客人の掛けていた安楽椅子を捉え、微かに揺れる。
認めねばならない、気分を害するどころか、リュミエールが側に居る方が、快適だとさえ感じるようになっている自分を。
(私が、変わってしまったのか?それとも、お前が特別なのか……?)
激しい葉ずれの音に、黒髪の守護聖は物思いから覚まされた。
気づけば空は真っ暗に曇り、今にも雨が降り出しそうになっている。
「リュミエール……!」
窓から見える限り、少年が戻ってくる気配もない。
クラヴィスは早足で庭に出ると、見失った客人を求めて歩き出した。
森のように広い庭の一隅で、樹齢も知れない木の根元に立ちつくし、青銀の髪の少年は、心細げに雨を見つめていた。
この樹の下でスケッチを始めたまでは良かったが、あまりに集中してしまったせいだろう、気づけば周囲は驟雨に覆い尽くされていたのだ。
体は少しも濡れていないが、ここから一歩も出る事が出来ない。
(このままこうしていては、クラヴィス様もお困りでしょう……けれど、ずぶ濡れで戻っても、ご面倒をお掛けするだけですし……)
考えあぐねた苦しげな表情で、リュミエールは両の瞼を閉じる。
こんな筈ではなかったのに。もちろん庭の美しさに胸を打たれたせいもあるけれど、それよりも、いつもお邪魔させて頂いているクラヴィス様に、せめてものお礼として、お気に入りらしい庭を描いて差し上げられたらと、そう思って写生を願い出たのに。
(かえって、迷惑をお掛けしてしまうだけだったなんて……)
造作の小さな唇を割って、切なげな長い息がもれていく。
それから数分が経っただろうか、少年は雨音の後ろに、何か別の音を聞きつけた。
はっとして開いた海色の瞳に、黒い人影が映る。
「……あ」
水を踏む音を立て、灰色の森を背景に進み出てくる、丈高い姿。
(まさか……?)
呆然と見つめている間に、その人物は、目の前まで近づいてきた。
雨の中をどれほど歩いてきたのだろう、長い黒髪は濡れるままに頬に肩にまといつき、衣裾は見るからに重そうに地を這っている。
普段以上に色を無くした蒼白な面の、今は漆黒に見える切れ長の瞳に、安堵の表情が浮かんだ途端、リュミエールは我に返った。
「ああ……申し訳ありません、クラヴィス様!」
悲痛な声で謝り、涙が出そうなほど恐縮しながら、少年は一歩踏み出すと、手持ちの布で相手の髪を拭い始めた。
「この様に濡れてしまわれて……私の不注意で、本当に……申し訳ありません……」
詫びを繰り返しながら相手の顔を見上げたリュミエールは、思わず布を取り落としそうになった。
そこには、つい今し方の表情が幻だったのかのごとく、険しい面があった。
厳しく顰められた眉、睨みすえるように見開かれた眼。強張った頬から薄い唇に掛けての、震えを起こすほど強い緊張 − 怒りと驚きと嘆きと、なぜか恐れさえもが交錯しているような、激しい表情。
突然、クラヴィスは、己の髪に寄せられた少年の手を、強く払いのけた。
「……あっ!」
思いがけない動きを受け、体のバランスを失った水の守護聖は、雨の中によろめき出た。
その拍子に、ぬかるみに足をとられ、泥の中に転倒してしまう。
「っ……すみません……お見苦しい姿を……」
雨と泥にまみれたリュミエールは、なおも謝りながら、地面に手を着き、立ち上がろうとする。
だが、次に少年の目に映ったのは、ゆっくりと離れていく黒衣だった。
(クラヴィス……様……)
驟雨の中、拒むように歩み去っていく長身の後ろ姿を、リュミエールはただ、途方に暮れて見つめるしかなかった。