雨の痛み・1−3
「長く掛かってしまった……あの場所から、ここまで」
薫り高い湯気の立ち上る、白い磁器のカップを受け取ると、黒衣の守護聖は呟くように言った。
雨が少し弱まったのを見計らって、水の庭から館に戻った二人は、居間で遅めの午後のお茶を楽しんでいる所だった。
「あの場所……?」
同じカップを手にした青銀の髪の青年が、その隣に腰掛けながら、いつもの穏やかな声で聞き返す。
クラヴィスは、切れの長い両眼を閉じると、低く答えた。
「闇の庭の大樹から……泥の中にお前を置き去りにしてから、だ」
リュミエールが一瞬息を呑み、それからそっと吐息を漏らすのが聞こえてくる。視界を閉ざしていても、その面に、憂いを帯びた柔らかな微笑が浮かんでいくのが感じられる。
(いや……時間だけで、ここまで来られた訳ではない)
熱い紅茶を含みながら、クラヴィスは思い出していた。
あの時、大樹の下に少年を見出した安堵は、すぐに混乱へと変わっていった。
直前まで自分を突き動かし駆り立てていた、そして、それまで誰にも感じた事のなかった、正体も分からぬ感情の激しさに − それを引き起こしたリュミエールの存在の大きさに − 気づいたこの心は、驚きと戦きと、そこから来る苛立ちに、たちまち支配されてしまったのだ。
(今ならば分かる、あれが“心配”という名の……他人を受け入れ、その危険を、自らのもののように思う感情であったと。あの時既に、この心にお前が、掛け替えのない存在として棲みついていたのだと)
だが、あの時は。
永らく心を閉ざし、孤独の中だけに安らぎを見出してきた自分にとって、それがあまりにも突然で、理解しがたい出来事であったゆえに……
闇の守護聖の白い手が、つと恋人の髪に延ばされる。
リュミエールはカップを置き、微笑んだまま不思議そうに見返していたが、やがてその長い指が髪を拭うように撫で始めたのに気づくと、はっとしたように呟いた。
「……クラヴィス様」
「すまなかった。あの時……」
「いいえ」
苦い記憶を噛みしめるように謝る黒髪の恋人に、青銀の髪の青年は、きっぱりと答える。
「元はと言えば、私の不注意のせいです。申し訳ありませんでした」
しかしクラヴィスは、なおも謝罪を止めようとしなかった。
「原因はどうであろうと、お前に酷い事をした……動揺していたのだ」
言い訳になどならないのは、承知している。世界が一変してしまったかのような衝撃だったのは事実だが、だからといって、何の罪もない少年を、突き飛ばすように振り払い、逃げ出してしまった事を、正当化など出来ようはずもない。
話しながら目を伏せていたクラヴィスは、相手の髪に置いたままの手が、温もりに包まれるのを感じ、視線を上げた。
優しく微笑む青年が、恋人の手に自らのそれを重ね、“分かっておりますから”というように、静かに頭を振っているのが見える。
包み込むような温かさの奥に、揺るぎない想いを秘めた、瞳。
(……時間だけであろう筈が……ない)
目の前の海に見とれながら、クラヴィスは改めて思った。
あのような仕打ちを受けた後も、リュミエールは変わらず側で助け続けてくれた。
その強さと優しさに、毎日のように接していたからこそ、少しずつでも自分は強くなれたのだろう。止めようもなく育っていく想いを認め、望みに向かって踏み出す勇気を見出せるようになったのだろう。
(後に、想いを告げる事が出来……そして今、このようにしていられるも、皆……)
胸に溢れてくる感謝と愛しさを表す言葉を見つけられず、闇の守護聖は、そのまま恋人の手を引き寄せると、ほっそりした指に口づけた。
青銀の睫が伏せられ、切ないほどの幸福に満ちた、小さな吐息が流れ出す。
それをもっと聞きたくて、クラヴィスは僅かに開いた唇を、甲から手首へと這わせていった。
震え始めた手を強く戒め、囚われた指の滑らかな爪の生え際をゆっくり舌でなぞってやると、リュミエールの息づかいが少しずつ乱れていく。
「クラヴィス……様……」
絶え入りそうな声に応えるように、クラヴィスは、愛する者の躯を抱き寄せた。