雨の痛み・2−1
2.夜の雨
暗灰色の雲の間から、僅かに星空が覗いている。
水の館の居間から寝室に移っていた闇の守護聖は、深更に目覚めると、傍らに眠る恋人を起こさぬよう、そっと寝台を降りた。
無造作に黒衣を掛け、窓を押し開くと、眼下に広がる庭に、小さな常夜灯が点々と灯っているのが目に入る。
今は輪郭さえ定かでない庭の草木が、水の恵みによって健やかな生を営んでいるのが、空気の瑞々しさから感じられるようだ。
「クラヴィス……様?」
背後からの声に振り向くと、青銀の髪の青年が、寝台から起きあがるのが見えた。
手早く衣を掛け、窓辺にやってくると、肩を並べて外を眺める。
「雨は止んでいたのですね……すぐにまた、降り出しかねない雲行きですが」
「ああ……」
愛する者との時間を、味わうように感じ取りながら、クラヴィスは静かに答える。
その時、雲の裂け目を、一つの星が流れていくのが見えた。
「あれは……あの方角は……」
はっとしたようなリュミエールの呟きに、クラヴィスは、ある星系が間もなく終焉を迎えようとしていたのを思い出した。
(このような時にまで、執務を意識するのか……?)
一瞬、不機嫌になりかけた闇の守護聖は、恋人の表情を見て、それが誤解であったのに気づいた。
守護聖として、執務としてではなく、リュミエールはただ一人の人間として、彼方の星々の命に思いを馳せていたのだ。
「“心配”、か……」
「……今、何と?」
聞き返された闇の守護聖は、自らの誤解を嘲笑するかのように、そして恋人の繊細さを気遣うように嘆息すると、低い声で問うた。
「お前のように、いかなる存在にも心を開き、受け入れる者は……さぞや、多くの心配を抱えているのだろうな」
「心配、ですか?」
質問の意図がよく分からないまま、リュミエールは素直に答える。
「はい、沢山ありますが……クラヴィス様をはじめとして」
思わず口から漏れてしまったらしい最後の言葉に、闇の守護聖は苦笑を禁じ得なかった。
「ふ……因果な性分だな」
水の守護聖もつられて苦笑し、それから、やや真顔に戻って頭を振る。
「いいえ、望んでしている事ですから」
「……お前は強いゆえに、そのように言えるのだ。並の者であれば、心配など、苦痛以外の何者でもあるまいに」
クラヴィスは、恋人に仄かな微笑を向けながらそう言うと、再び窓外へ視線を戻した。
暗がりの中でも白く浮かび上がる、その端正な横顔に見とれながら、リュミエールは小さな溜息を付き、それから呟いた。
「強くなどありません」
ぽつんと放たれた言葉を聞きつけ、訝しげな表情で振り返った闇の守護聖は、海の暗さを宿す深い眼差しの中に、青年が守護聖としての歳月の中で目にしてきた、数多の苦しみの陰を見て取った。
「リュミエール……」
「私にとっても、苦痛な事に変わりはありません……それでも、心配せずにいられないのです」
日頃隠している脆さが、ふと零れ出てしまったような水の守護聖の表情に、クラヴィスは気遣わしげな長い息を付くと、あえて冷たく言い放った。
「いかに善く治められた世であろうと、避け得ず、助ける事も叶わぬ不幸は、必ず生じるものだ。お前が心配したところで、どうなるものでもあるまい」
残酷な真実を告げる言葉ではあったが、その奥に、自分への“心配”が潜んでいるのに気づいたリュミエールは、気丈な微笑を浮かべ、穏やかに答えた。
「弱音を吐いて、申し訳ありませんでした。仰るとおりだと、私も思います……けれど、だからこそ思いやらずにいられないのです。たとえ助けられず、相手の知る所でさえなくとも、ほんの僅かでもその苦を共にし、恵まれぬ運命を生き抜いた命たちを、心に刻みつけたいのです。その存在を知った幸福に、少しでも報いるために」
「苦しみの刻印、か……」
繊細な心を押して、辛さを幸福と言い切れる強さに、クラヴィスは感じ入った面もちで瞼を伏せると、予言のように低く呟いた。
「……いずれ誰もが、それのみを後に遺す事になろうな」
「はい……苦しく、そして貴い印です。自ら選んだ者にとっては、幸福の絆ともなります。それはクラヴィス様が、一番ご存じなのではありませんか」
静かな問いかけに、闇の守護聖は答えようとしない。
ただ彫像のように立ちつくす、その長身の姿を黙って見上げながら、リュミエールは、聖地に来たばかりの頃、自分がどれほどこの人に助けられていたかを、思い出していた。