*このお話の中では、“月”という言葉を“衛星”という意味で用いています*



映  月


1.


 海が好きだった。

 朝に昼に夕方に、その大きさや優しさ、力強さに憧れずにはいられなかった。

 けれど、夜だけは……怖かった。




(『どうして――』)

遠い日に呟いた言葉が、意識の表面に束の間姿を現しては、底知れぬ深みへと沈んでいく。

(『――のだろう……』)




 まるで、気まぐれな波に弄ばれる貝殻のように。






 最後の音が、闇の部屋の静寂に溶け終わるのを待って、リュミエールは竪琴を持ち直した。

「そろそろ午後の執務が始まりますので、私はこれで……」

儚いほどに繊細な面に穏やかな微笑を浮かべ、同僚にして計り知れぬ敬愛の対象であり、恋人でもある聴き手に語りかける。

 部屋の奥に置かれたカウチに、半ば横たわるように身を収めていた黒衣の男が、応じるようにその白い瞼を上げた。

「……何という曲だ?」

いつものように頷くかわりに、低く問いかけられて、水の守護聖は少し驚いたように答えた。

「最後の曲ですか? あれは私の故郷に伝わる、海を歌った古謡の一つですが……そういえば、クラヴィス様にお聞かせしたのは初めてだったかもしれません」

「そうか」

見る者に畏怖の念さえ与えかねないほど整った面の、切れの長い双眸に、どこか訝しむような、そして微かに動揺した表情が浮かんでいる。

 リュミエールは音もなく立ち上がると、相手の方に歩み寄りながら、心配そうに尋ねた。

「クラヴィス様、あの曲がどうかなさったのですか」

「いや……」

闇の守護聖はしばし考えた後、ゆっくりと身を起こし、言葉を継いだ。

「今宵は満月だな。お前の館からもよく見えるだろう……出向いても良いか?」

「は、はい」

突然の事にいささか当惑しながらも、水色の髪の青年は嬉しそうに答えた。

「喜んでお迎えいたします」

 目の前に来た青年の、深い海を思わせる瞳を見上げていたクラヴィスは、そこに現れた幸福そうな微笑に、仄かに眼を細めた。

「潮風や波の音に、お前は育まれてきたのだったな。そうは見えぬが……この手も……指も」

長い腕を伸ばして手首を捉えられ、青年は引きずられるように隣席に腰を下ろす。

「髪も……耳朶も……」

甘い囁きだけでも耐え難いのに、言葉を追うように施されていく口付けに、リュミエールは思わず掠れた悲鳴を上げた。

「クラヴィス様、もう……!」

“執務の時間です”と、青年は告げるつもりだった。

 だが、できなかった。


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