聖なる印象


1.


 壮麗なレリーフの施された大扉から、一人の若者が出てきた。すらりとした肢体を白い衣に包み、髪はつややかな藍紫、幾分つりあがった大きな瞳に、今は憮然とした表情を浮かべている。

 そのまま歩きだそうとして、彼はふと背後の部屋を振り返った。

 扉の向こう、謁見室と呼ばれるそこは、若者がこの宇宙の第256代女王に初めて拝謁した場所であり、また、感性の教官として協力している新宇宙の女王試験の情況を、折々に報告している場所でもあった。

 だが今日呼ばれた用件は、それらとは全く違うものだったのだ。




 まだ16、7歳の少女の姿を持つ女王は、いつもながら無限の慈愛を感じさせる微笑みをもって、こう話し始めた。

『セイラン、あなたは作曲だけではなく、いろいろな楽器の演奏にも長けているそうですね。よかったら一度、聴かせてくれませんか』

荘厳さを感じさせる透明な声が、今日はどこか華やいだ調子を帯びているようだ。

 思わず壇上を見返すと、それが承諾と受け取られたのか──あるいは、最初から拒絶される事など想定されていないのか──女王は更に話を展開し始めた。

『それでね、あなたも知っているかもしれないけれど、リュミエールは竪琴がとても上手なのよ。だから、二人で共演したら素敵だと思うの。せっかくだから、他の協力者のみなさんや守護聖たちにも聞いてもらえるように、サロンコンサートにして……ね、きっとみんなの親睦も深まるし、いい思い出になるに違いないわ!』

 言い終わるころには、女王はすでに“元気な少女”以外の何者でもなくなっていた。

セイランは半ば呆然としながらも、まだ自分が承知したわけではない事を指摘しようと、急いで口を開きかけたが、その機先を制するように、誰かが謁見室に飛び込んできた。

『陛下、次の予定が迫っているというのに、何をなさっているのです……あら、セイランをお呼びだったのですか。何か御用でも?』

急いで呼びに来たらしく、青い髪の補佐官はやや息を切らしている。

『いいのよロザリア、もうお話は終わったから。じゃあセイラン、後でロザリアにも言っておくから、リュミエールと話して日取りを決めておいてね。楽しみにしてるわ』

宇宙を統べる女王はあわてた様子もなくそう答えると、補佐官と共に退出していってしまった。




 藍色の髪の若者は、一つため息をつくと、大扉から視線を外した。

 権力者という人種に、突拍子もないわがままを言う習性がある事は、よく知っているつもりだった。“宇宙中に知られた芸術家”などというものになってしまったせいで、幾度もその習性の被害にあってきたのだし、おかげで彼らを適当にあしらう術も身につけてきたはずだった。

(なのにあんな事を、一言もなく引き受けさせられてしまうなんて……)

自分が信じられない思いで、セイランは頭を振った。

 確かに女王という存在は、他のどんな権力者とくらべても別格だ。だが、とっさに断りの言葉が出なかったのは、そんな理由ではない。普段の威厳と先刻の庶民的な態度の落差に、自分ともあろう者が、すっかり面食らってしまっていたのだ。




(さて、どうしたものだろう……)

後悔から検討へと気持ちを切り替えると、セイランは幅広い通路を歩き出した。

 教官の方から謁見を願い出られるのは、試験に関する緊急時だけだと聞いている。補佐官に言付ける事はできるだろうが、それでこちらの気持ちが伝わるか、理解してもらえるかどうかは分からない。

 実のところ、聖地での生活や試験への協力という、得がたい経験をもたらしてくれた恩を思えば、女王に演奏を聞かせるくらいは構わないと思う。だが、コンサートとなると、話は別だ。小規模とはいえ、聴衆の前で弾くのは本分ではないし、何よりも女王の口にした“親睦”というのが、自分は大の苦手なのだ。

 しかもそれが、水の守護聖とのジョイントコンサートだという。

「……冗談じゃない」

通路から廊下へと角を曲がりながら、若者は呟いた。

 宮殿や庭園を歩いていて、どこからともなく演奏が聞こえてきた事が幾度かあったので、リュミエールが優れた演奏技術を持っているのは分かっている。だがその音楽は、常に先鋭的なものを追求しているセイランからすれば、とても興味を抱けそうにない保守的な代物に過ぎなかった。

 どうせ浮世離れした身分のお方が、ほんの手なぐさみに弾いているだけなのだろう。そう考えれば、評価の定まった無難な作品ばかりが選ばれるのも納得がいく。

(そんな人と共演なんて……!)

きっとした表情で顔を上げると、セイランはその整った面を、守護聖執務室の方角に向けた。




 水の執務室付きの従僕が、申し訳なさそうに主の不在を告げる。

「……昼食をすまされたばかりですので、おそらくはクラヴィス様のお部屋にいらっしゃると思いますが──」

「ああ、そうかもしれないね」

そういえば試験の用事で闇の執務室を訪れると、よくリュミエールが竪琴を弾いているのに出くわすような気がする。

 感性の教官は従僕に礼を言い、更に奥へと廊下を進んでいった。




 他の執務室と同じ造りのはずなのに、何となく重苦しい雰囲気のある部屋をノックすると──こちらからは聞き取れなかったが、恐らくクラヴィスが返事をしたのだろう──従僕がさっと扉を開いた。

 中に入ると予想通りの、そして幾度も見た事のある図が広がっていた。

 見事な水晶球の置かれた執務机の向こうには黒衣黒髪、端正な白面に、底知れぬ淵のような眼差しを備えた長身の姿が座し、こちらには白と水色の衣をまとった繊細な青年が、優しい微笑を湛えて竪琴を構えている。

 目の当たりにするたびに芸術家としての興味をそそられる光景だが、今はあえてそれを抑えて話すべきだろう。

「セイラン……ではクラヴィス様、私はこれで」

やわらかく響いてくる声が耳に心地よく、そして苛立たしい。

「いいえ、今日はリュミエール様に話があって来たんです」

 水の守護聖の面に穏やかな興味が現れるのと同時に、闇の守護聖がいぶかしげに双眸を上げるのが見て取れた。

 若者は一呼吸おいてから、先刻女王から賜った言葉を二人に告げた。

「──ところが、あまりに意外なお話だったので、つい返事をしそびれてしまったんですよ。あいにく僕の方からは自由に謁見を願い出られないので、代わりにリュミエール様の方から、陛下にお断りしていただきたいんですが」

 にこやかに話を聞いていた青年が、不思議そうに聞いてきた。

「あなたは……陛下のご提案を断るつもりなのですか?」

「もちろん」

藍紫の髪の若者は、即座に答えた。

「リュミエール様お得意の古典演奏は、僕にとって退屈な骨董品でしかありませんし、そういうものを好まれる方にとっては実験的な音楽など、耳障りな雑音でしかないでしょう。共演したらどんな結果になるかは、容易に想像できます」

「セイラン、それは……」

優美な面をかすかに曇らせて、リュミエールが何か言いかけた時、執務机のモニターから女性の声が聞こえてきた。

『クラヴィス、そちらにリュミエールが来ていますかしら?』

上品ではきはきした話し方は、紛れもなく女王補佐官のものである。

「来ているが……」

青銀の髪の青年に視線を向けながら、部屋の主は短く答えた。

『では、すぐ星の間に来るよう伝えて下さい。お願いしますわ』

「……分かった」

「クラヴィス様」

すでにリュミエールは竪琴を椅子に置き、立ち上がっていた。

 闇の守護聖がうなずくのを見て、静かに一礼を返す。彼らの間ではきっと、それで充分なのだろう。

 次いでリュミエールは感性の教官を振り向くと、申し訳なさそうに言った。

「すみませんがセイラン、お話の続きは、また日を改めて」

「ええ、構いませんよ」

若者の返事に感謝の微笑を返し、水の守護聖は足早に部屋を出て行った。

 次いで暇を告げようとして、セイランはふとリュミエールの竪琴に眼を留めた。

 近くでじっくり見るのは初めてだが、暇と財産を持て余す人種の持ち物にしては、意外なほど装飾が少ない。というよりむしろ、素材といい形といい、ひとえに音色だけを追求して造られたもののように見える。真にぜいたくな造りとも言えるのだが、持ち主はこの価値を分かって愛用しているのだろうか……

「……何を見ている」

執務机の向こうから突然、低い声が聞こえてきた。

 セイランは竪琴から眼を外すと、動揺を隠すべく、ことさらに皮肉めいた言葉を発した。

「いえ、守護聖様というのもけっこうお忙しい身分なんだと、驚いていたんですよ。道楽でたしなんでいらっしゃる竪琴があんなに上手になるくらいだから、毎日がよほどお暇なのかと思っていたんですが……では、僕はこれで」

怒りの言葉を覚悟しながら、若者は慇懃無礼な礼をしたが、闇の守護聖は表情を変えなかった。

 だが彼が部屋を出る瞬間、嘆息にも似た呟きが、背後からその耳に届いたのだった。

「……確かにお前のような者が、リュミエールに合わせられる音など、持とうはずがないな」




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