聖なる印象・2

2.


 不安とも苛立ちともつかない思いを抱いて、セイランは学芸館に戻った。

 コンサート中止への協力を取り付けられなかった事も一因だが、それ以上に、自分の中の何かが思いがけなく揺らぎはじめたような、どうにも落ち着かない気分がするのだ。

 こんな状態で女王候補たちを教えても、ろくな事にはならないだろうと判断した若者は、教室を素通りすると、私室の一つに入っていった。




 防音窓と防音壁に囲まれた広い部屋の中央にピアノが置かれ、周囲にはクッションに楽器、筆記用具、そして何十枚もの紙が散らばっている。聖地での経験を作品にしようと書きためてきたスケッチや曲の断片などである。

 セイランは紙をまとめて手に取ると、書き付けられた旋律の一つをピアノで弾き始めた。

“美しい森や花々、白亜の宮殿、宇宙を司る力を持つ存在──外界の者には想像も理解もできない、優雅で荘厳な世界──”

(それだけじゃない……この解釈は、不十分だ)

書き記された部分を終わっても、若者は指を止めようとはしなかった。数多くの曲を作ってきたその感性をもって、まだ捉えきれていない聖地の姿を見出そうと、一心に音を探り続けた。

 全神経を集中させたまま、どれほど時がたったのだろうか。窓の外が夜景に変わっても、まだ納得のいく音楽を見出せないまま、若者は鍵盤に指を走らせていた。

 だが時間がたつにつれ、体は力を失っていく。指は音を外しがちになり、肩も背も揺らぎ始め、ついにセイランの全身は、滑るように椅子から崩れ落ちてしまった。

(……それだけ……じゃない……)

再び座ろうと伸ばした手が椅子を倒し、それを戻そうと前に傾けた体が、静かに床に伏せていく。

 心で音を求め続けながら、セイランは意識を失っていった。




 次に目に映ったのもやはり、同じ窓から見える夜空だった。

「……痛っ」

自覚がないままに体力と神経が限界に達し、気絶するように眠りに落ちるのは、彼にとってさほど珍しい事でもなかった。ただ、無理な姿勢になっていたらしく、体のあちこちがひどく強ばっている。

 慎重に手をついて起き上がると、壁の時計──教官という仕事を引き受けた手前、仕方なく掛ける事にした──が、すでに夜半近い時を指しているのが目に留まった。今さらベッドに入っても寝付けないだろう。そうでなくとも、昼間から探している答えが、いまだ見つかる気配すらないのだ。

 かと言って、これ以上ピアノの前に座っていたところで、あまり進展は見込めない気がする。こういう時は場所を変えて、気分を新たにしてから考え直した方がいいのかもしれない……

 散歩にでも出ようとドアに向かったセイランは、そこで何か思いついたように振り返ると、馬車を呼ぶベルを押した。






 深更の宮殿は、時折警備兵が行きかうだけの、巨大で薄暗い空間だった。試験協力者を見咎める者もなく、一部の立ち入り禁止区域や施錠された部屋を除けば、セイランは好きなようにその中を歩く事ができた。

 日光の映える白亜の建物は、ほとんどの照明が落とされて、深海の底のように静まり返っている。自分の足音だけが短く響いては闇に吸い込まれていく暗がりの中で、幾度も見た壁画や飾り彫りも、始めて目にするように新鮮な姿に映る。

 そうして興味深い散歩を楽しんでいる間に、若者は見覚えのない一角にたどり着いた。

「ここは……だいぶ奥の方まで来てしまったのかな」

さらに進もうとするセイランに、どこからともなく現れた警備兵が声をかけてきた。

「この通路は星の間と前室に通じていますが、試験協力者の方がお入りになれるのは前室までです。星の間には特殊な鍵が掛けられていますので、お気をつけください」

「そう……分かったよ、ありがとう」

昼間、水の守護聖が呼び出されていた場所だ。伝え聞くところによると、守護聖がサクリアを宇宙に放出するための部屋だという。この時間では誰もいないだろうが、前室だけでも見られるのなら──

 セイランは好奇心に導かれるように、通路を歩いていった。




 両開きになっている扉の、片側だけが開いているのが見える。

(ここが前室か……)

他の場所と同じように薄暗いので良く分からないが、守護聖全員が会食できるほどの広さはありそうだ。

 足を踏み入れる前に中を見渡してみると、突き当たりにもう一つの扉があり、それに沿うように長い影が射しているのが目に留まった。部屋に入れば何の影なのか分かるのだろうが、なぜか近づいてはならないような気がして、セイランはその場に立ったまま目を凝らしていた。

 奥の扉が開いたのは、それから間もなくの事だった。

 僅かな光でも見て取れる白と水色の衣、青銀の髪の青年が、今にも倒れそうな足取りで星の間から出てくると、それまでぴくりとも動かなかった影が、音もなく素早く近づいていく。

「クラヴィス様……!」

掠れた声が呼びかける前に、リュミエールは闇の守護聖に抱き止められていた。

「待っていてくださったのですか……こんなに遅くまで」

「執務が終わってからだ。お前がここにいた時間と比べれば、大した事ではない」

クラヴィスは低い声で答えると、相手の面が見えるように腕を緩め、それから咎めるように続けた。

「ひどく消耗しているな……これほどのサクリアが、一時に必要だったのか?」

青銀の髪の青年は、恐縮したように息をついた。

「何日かに分けても良いとは言わました。けれど、早く送ればそれだけ、あの星系の人たちが危険から逃れられると思うと、つい……」

申し訳なさそうに途切れた言葉に闇の守護聖は答えず、代わりに相手の髪をそっと撫ぜる。

 やがて二人の面が、吸い寄せられるように近づいていくのを、セイランは陶然と見つめていた。

 いたわり尊ぶようにそっと交わされた口付けは、甘美さを伴って繰り返され、次第に激しく互いを求め合うそれへと変わっていく。崩れ落ちそうな相手の背を黒衣の男がかき抱けば、青銀の髪の青年は、僅かな隙間すら耐えられないようにしがみついてくる。

 薄明かりの下で抱きあう二人の姿は、古代神話の神々のように荘厳で力強く、それでいて、荒れ野に取り残された幼子たちのように無力で切なかった。

(これを……この感じを……)

心がこれまでになく高揚し、同時に鋭く澄んでいるのを感じながら、セイランは静かにその場を去っていった。



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