聖なる印象・3
3.
窓を満たす朝日と騒々しい呼び出し音が、競うように頭に飛び込んでくる。
まだ休みたがっている意識をいやおうなく刺激されて、若者は再び防音室のピアノの下で目を覚ました。
這うようにモニターまでたどり着くと、もつれる指でボタンを押す。
『セイラン様、おはようございます』
学芸館付きの職員の声が、腹立たしいほどさわやかに響いてきた。
「学習は午後からにすると言っておいただろう」
不機嫌さを隠そうともしない返事に、一瞬ひるんだ職員は、それでも愛想よく情報を伝えた。
『リュミエール様がいらっしゃっています』
「……何だって」
若者は虚をつかれたように目を見開き、それから珍しくも和やかな表情になって答えた。
「分った。ここにお通ししてくれ」
「おはようございます、セイラン」
床に散乱する芸術の卵を慎重によけながら、水の守護聖は防音室に入ってきた。
しなやかに流れる青銀の髪にも整った優しい相貌にも、前日の疲れは認められない。ただ、足もとを確かめようとうつむいた拍子に、その瞼がいつもより少し深い影に覆われているのが見て取れた。
「昨日は途中で出て行ってしまって、すみませんでした。今からお話の続きをしてもいいでしょうか」
「構いませんよ。その辺のクッションにでも腰を下ろしてください」
ピアノに近い床に向き合って座ると、リュミエールはためらいがちに話し出した。
「昨日のお話では、私と共演したくないという事でしたが……」
「ええ、そう言いましたね」
細い脚をゆるく組んだ芸術家は、楽しそうな眼差しで相手を見つめる。
水の守護聖はしばらく言いよどんだ後、思いきったように口を開いた。
「このような言い方は失礼かもしれませんが……私の音楽の好みについて、少し誤解があるように思えるのです。私は古典的とか実験的といった枠で曲を選んでいるわけではありません。確かに私の演奏する曲には、古典的と言われるものが多くありますが──」
「時を越えて愛されてきた音楽には、それだけの美しさがありますからね」
後を引き取るように、セイランが続けた。
「今なら分りますよ、リュミエール様が曲の評判ではなく、純粋に内容で演目を選んできたという事が。もしかしたら、僕たちが古典的と呼ぶ音楽が、かつて実験的と言われていた頃から、それを愛し奏で続けてこられたのかもしれませんね」
「セイラン……!」
海の色を写し取ったような美しい瞳が、驚きと喜びに見開かれる。
若者は、小さく自嘲のため息をついた。
「ええ、僕は誤解していました。名曲を殺す権威主義的な演奏なのか、それとも命を与え続ける生きた演奏なのか、ちゃんと聴いてから判断するべきだったのに──いや、通りがかりに聞いただけでも分かる事なのに、愚かにも先入観に耳をふさがれていたんだ」
守護聖が自分たちとは全く異なる、理解できない人種なのだろうという先入観。その力ゆえに、外界の民の事など塵ほどにしか見られないような、尊大な感性の持ち主だろうという、先入観。聖地にやってきて、じかに守護聖たちと接するようになっても、その見方は変わっていなかったのだ。
そう、昨夜までは。彼らの内にあるもろさと強さ、そして本当の美しさを見出すまでは──
「セイラン……どうしました? あの後、何かあったのですか」
やわらかく心配そうな声が、たずねてくる。
若き芸術家は物思いから覚めると、身軽な動作で立ち上がった。
「いいえ、“感動は人を変える”という、使い古された言葉の意味を悟っただけの事ですよ……さて、あらためて共演を申し込んでもいいでしょうか?
今朝書き上げた曲を、ぜひ一緒に演奏していただきたいんです」
ピアノの上に散らばる紙束を指し示しながら、セイランは水の守護聖に微笑みかけた。
それから数週後の夜、宮殿の小広間では、聴衆たち──女王と補佐官、守護聖と協力者、そして二人の女王候補──全員が立ち上がり、終わったばかりの演奏に惜しみない拍手を送っていた。
演奏者たちは会心の笑みを交わし、並んで前に出る。水の守護聖と共に一礼したセイランは、女王の傍らに立つ闇の守護聖に向かって片側の眉を上げて見せた。
無表情な切れ長の眼がほのかに温かく微笑み、それからリュミエールに向けられる。
「ありがとう、リュミエール、セイラン。すばらしいコンサートでした」
女王の言葉にひときわ高まる拍手の中、二人の演奏者は固い握手を交わした。
翌日、セイランはまた女王の呼び出しを受けた。
大きな扉がさっと開かれると、今回は補佐官と闇の守護聖、それに水の守護聖も同席しているのが見えた。
「昨日はお疲れさま。思っていた以上に素敵な夜になったわ。今日からはまた、女王候補たちを助けてあげてくださいね」
「はい、陛下」
今日は相手が威厳と庶民性の間の、どのあたりにいるのだろうと思いながら、セイランは返事をした。
「ところで、セイラン」
傍らに控えていた女王補佐官が、いつものさっぱりした、それでいて優雅な口調で言い出した。
「陛下の特別な思し召しで、あなたを宮廷付き芸術家として聖地に迎え入れたいのですけれど、いかがかしら」
「宮廷付き……芸術家、ですか」
またも予期しない事を言い出された若者は、唖然として相手の言葉を繰り返した。
「と言っても名目上の事ですわ。気が向いた時にでも作品を発表してくだされば、あとは他の聖地の住人たちと同じように暮らしてくださって結構よ。ここに住めば災害や病気とも無縁でいられるし……悪い話ではないと思うけれど」
セイランは黙って女王を見つめ、それから一つ息をついた。闇と水の守護聖たちが自分を見ているのが感じられたが、あえて彼らのほうを向こうとはしなかった。
「せっかくのお話ですが、お断りします」
「そう……残念ね」
明るい緑の瞳を少しだけ曇らせて、それでも女王は笑顔のまま答えた。
「もし試験終了までに気が変わったら、いつでも言いにきてね。じゃ、ロザリア」
補佐官に伴われて、女王は退出していった。
きびすを返したセイランに、声をかけてくる者があった。
「今度は……自分で断ってしまったのですね」
振り向くと水の守護聖が、さびしそうな微笑を浮かべて立っていた。
「今の話、リュミエール様が口添えされたんですか」
「私たちは、陛下から相談を受けたのだ」
守るように恋人の傍らに立ち、闇の守護聖が低く答える。
「芸術家の価値観は分からぬが……やはり、聖地は住みにくいのか」
若者は、声を上げて笑った。
「そんな事を言ったら、宇宙中どこにも住めないじゃありませんか。僕は、こういうやり方で運命を変えるのが性に合わないんですよ。それに……」
守護聖たちを──慈愛と意志とを支えに、厳しくも偉大な使命を果たし続ける人たちを──見つめながら、セイランは話し続けた。
「古の先達たちのように僕も生を賭けて、自分の世界と時代を相手に、どこまで芸術を極められるか試してみたいんです。いつか、時を越えて愛される作品を生み出せる事を夢見ながら」
「セイラン……」
「失礼します」
若き芸術家は、急にそっけなく挨拶をすると、返事を待たずに歩き始めた。
決断を後悔するつもりはない。ただ、ここで出会った人たちが忘れがたくなって、別れる時に心が揺らぐのが恐くなったのだ。
(それでも……僕は旅立つだろう。選んだ道は、そちらにしか延びていないのだから)
壮麗なレリーフの施された大扉が、侍従の手によって開かれる。すらりとした肢体を白い衣に包んだ若者が通り抜けると、それは再び静かに閉められた。
FIN
0601