君 に
ビジネス街の中心部に建つ、ウォン財閥メインビルディングの総帥室。
主要企業の社長も兼ねているため、内部の者には“社長室”と呼ばれているそのオフィスで、チャーリーは今日もまた、問い合わせの電話を掛けていた。
『……いいえ、まだどなたも、お客様のメッセージを受け取りにいらっしゃっていません。お預かりしてから日数もだいぶ経っておりますが、このままにしておかれますか?お引き取りになるか、こちらで破棄した方が宜しければ、その様に手配いたしますが』
そのままにしといてや、と答えると、チャーリーは力無く受話器を置いた。
“このホテルのフロントに連絡先を置いていくから、気持ちの整理が出来たら会いに来て欲しい”
心底惚れ込んだ相手にそう告げてから、もう何ヶ月が経つのだろう。
最初は気長に待つつもりだったのに、十日もしないうちにホテルに電話を掛け始め、三十日を超す頃からは、二日とあけず問い合わせるようになってしまっている。
だが、何度聞いてみても、返事は同じだった。
「はああ〜〜」
高級なスーツに包まれた細身の身体を椅子に投げ出し、青年は大きなため息を付いていた。
(物わかりのええ振りなんかせんと、あのまま勢いで、押し切ってまえば良かったんやろか……)
こんな後悔も、何十回と無く繰り返してきた。
だが、そう思うたびに、耳に蘇る声がある。
『君にはもう、心を許さないまま会うような真似はしたくないんだ』
長く激しい口づけに潤んだ藍紫の瞳で、それでも真っ直ぐにこちらを見上げ、告げてきた言葉。
自らの過ちを悔いるあまり、誰にも心を許そうとしなかったセイランにとって、それはチャーリーが特別な存在になった事を意味していた。
──だから、半端な気持ちでは会いたくない──
その気持ちが分かったから、嬉しかったからこそ、自分は待っていると答えられたのだ。
互いの生き方を分かっている、誰よりも求め合いながら、頼りすぎないでいられる強さを与え合える、そんな、掛け替えのない相手になりたいから。
「そうそう、人間辛抱や!俺はいつまでも待てる……いうか、それくらいの度量持ってへんと、あの人とはお付き合いしていけんやろからな」
自分に言い聞かせるように頷くと、青年は機敏な動きで身体を起こし、仕事を再開しようとした。
だが、思い出しかけた記憶が勝手にさかのぼり始め、様々なセイランの姿が勝手に脳裏に蘇ってくる。
寝ぼけた無防備な表情で、シーツをつかんだまま身を起こした姿。その直前に見た、驚くほど無垢であどけなかった寝顔……
「あかん!」
ライトグリーンの頭をぶんぶん振って妄念を払うと、若き総帥はインターフォンのボタンを押した。
机上のモニター画面に、眉をしかめた秘書の顔が映る。
「なあちょっと、コーヒー持ってきてくれへんか……っと、何難しい顔してるん?」
『あ、失礼いたしました。たった今受付から回ってきた、予約外面会希望者のメッセージに目を通していましたので……コーヒー、すぐお持ちします』
「面会希望者って、新商品の売り込みやろ?どんなもんでも一応は、開発担当に回す事になってるはずやないか?」
いつものなめらかな口調の中に、低く鋭い響きが籠もっていた。飛び込みでやってきた商品の中からヒットが生まれる確率は決して高くはないが、だからといって見逃していいほど低くもない。
しかし秘書は、頭を振って答えた。
『それが、商品や書類は持参しておらず、ただ社長とお会いしたいと言っているそうなんです。メッセージの方も、害は無さそうですけれど、“きよらかな指“とか何とか、訳が分からなくて』
ヘーゼル色の切れ長の目が、裂けそうなほど大きく見開かれた。
「今、何て言うた」
『読み上げましょうか?“きよらかな指を取った君……”』
次の瞬間、ウォン財閥総帥は、物凄い勢いで社長室を飛び出していた。
一階のメインロビーに幹部用エレベーターが着くと、目を白黒させている警備員を押しのけ、チャーリーは正面受付に目を向けた。
「どこや、俺に会いに来た客は!」
「……やあ」
軽く手を挙げた、華奢な肢体。微笑みかける藍紫の瞳、端正な象牙色の面。
「スーツもなかなか似合っているね、チャールズ・ウォン」
「あんた……」
青年は、泣きかけて怒ったような、何とも言えない表情で、ただ相手を見つめていた。
とにかく社長室に行って、落ち着いて話そうと──落ち着く必要があるのは自分の方なのだが──チャーリーは若者をエレベーターに連れ込んだ。
「古めかしいけど、なかなか感じのいい建物だね。でも、内装と受付担当の制服が、色彩的にあまり合っていなかったな」
聞き慣れた気楽そうな口調で、藍紫の芸術家が話しかけてくる。
「ああ……さよか」
こうして日常的な空間にあると、相手の声も容姿も才気も、信じられないほど際だっているのに改めて気づかされ、呆然としてしまう。
(記憶は少しも薄れておらへんかったはずなのに、なあ……)
若者の横顔を見つめながら、チャーリーは大きなため息をついていた。