きよらかな指


 淡い紫のスーツとシルクのシャツが、螺鈿の椅子の上に、無造作に脱ぎ捨てられている。

 ローションを控えめに手に取ると、彼はウエーブの掛かった髪に指を差し入れた。

 軽く梳くようにしてローションを行き渡らせ、ストールと揃いのバンダナで長い髪をまとめる。

 鏡の中の青年は、細身ながら強靱そうな筋肉を備えた上半身をショートベストに包み、下半身には白いズボンとブーツ、そして全身にエスニックな装飾品を纏っている。

 ボヘミアンめいた、だが、どこか親しみを感じさせる扮装。

 しかし、ヘーゼルがかった茶色の両眼には、陽気さと共に、その出で立ちに似合わぬ自信と鋭さが漲っている。

「……仕上げは、コレやな」

 呟きながら彼は、色の入った丸いレンズの鼻眼鏡を顔に乗せた。

 そうして、改めて鏡を見る。

 怪しげだが、人の好さそうな露天商の姿が、そこにあった。




 宇宙一の大財閥の家柄に生まれ、若くして社長の任に就いたチャーリー、本名チャールズ・ウォンは、一族の期待に応えるべく、仕事に打ち込んできた。

 それを、不満に思ったことはない。

 むしろ、生まれながらに天職を得ていた幸運を、彼は実感していた。。

 商売は性に合っているし、忙しい中に暇を見つけて遊ぶのも、仕事で訪れた土地で、こっそり身分を隠して歩き回るのも、とても楽しいと思う。

 だがこの頃、ふと考える事があるのだ。

 もし違った生まれであったら、自分は一体、どんな人生を送っていただろう、と。




 『有能で信頼の置ける販売員を一名、借り受けたい』

 聖地からの奇妙な要請を受けた時、周囲の反対を押し切って、自らが行くと言い張ったのは、その疑問への答えを見つけたかったからかもしれない。

 例え週末だけとはいえ、聖地という、財閥の影響力も及ばない場所で、肩書きもないただ一人の商人として、自分は何を考え、どう過ごすだろう、……

 実験めいた気持ちで、彼は旅立ちの準備をしていた。




 「ここは、毎日ええ天気やなあ……さて、そろそろ店を開く場所を決めんと、ロザリア様に迷惑掛かってしまうな」

女王候補を待つばかりとなった聖地の庭園を、チャーリーはぶらぶらと歩いていた。

 「それにしても……変わったなあ、俺の中の、聖地のイメージは」

 一露天商として通勤(!)するようになると、商用や会議で訪れた時とは全然違う、普段着の聖地の姿が見えてくる。

 思っていたよりもはるかに親しみやすく、ありふれた平和な小国に過ぎないのではないかと、錯覚さえしそうである。

 だが、彼はまた知っていた。

 女王や守護聖の住むこの地には、厳しい審査を通った者とその家族以外、居住はおろか立ち入りさえ不可能である事を。

 逆に言えば、ここにいる者は、その審査に通るだけの何かを持っている事になる。

 そこで樹木の手入れをしている係員も、カフェテラスで立ち働いているウエイトレスも、いつも同じ席に座っているカップルも……

(やれやれ、今日もあの席から、熱いオーラが流れ出してるわ……ちょっと頭冷やして来よ)

 軽く肩を竦めると、青年は森に向かって歩き出した。




 森の奧に、美しい湖と滝があると聞いていた。

 水音を頼りに歩を進めるチャーリーの前に、やがて湖が見えて来る。

 そして、それ以上に美しいものが。




 (雛にもまれな美人さんやなあ……)

 ほっそりした姿──若い女性か、それとも少年なのだろうか──が、滝の畔の平らな岩に立っている。

 瑠璃色の真直ぐな髪を顎の線で揃え、象牙色の肌を飾り気のない白いシャツ、華奢な下肢を紺のストレートパンツで包んでいる。

 落下する水に目を奪われているのか、近づく青年に気づきもしないで、一心に滝を見つめている。

 距離が縮まるにつれ、その繊細な面立ちが、露わになっていく。

(ほんま、うっとりするわ……けど、分からん。近づくとますます分からんなあ、このお人の性別……)

 若者にしては繊細だが、女性にしては線にきつさがある。

 二十歩ほどの距離に立ち止まり凝視していると、その人物は、やにわに滝に向かって腕を伸ばした。

 滝自体は届く位置にないが、そこから分かれて落ちる一条の水筋が、風にあおられて近くまで来ていたのだ。

 白く細い手が、勢いよく落ちる水を受けて揺れる。

 『美人さん』は暫くそのままの格好でいたが、やがて突然、濡れた手を放るように振り上げた。

 突然の日光を受けた飛沫が、驚いたように眩しく煌めく。

 一瞬の宝石を愛でるように微笑みんだ両の目は、仄かにエメラルドの入った、この上なく豊かなマリンブルー。高く飛んだ飛沫の落ちていく様を見ながら、くすくす笑い出した表情は、驚くほどに無垢だった。

 見つめながら青年は、あるフレーズを思い出していた。

 いつか家庭教師に教わったものの、関心もなく、今の今まですっかり忘れていた詩の一節である。

“詩人のきよらかな指がすくえば……”

 吸い寄せられるように、彼は再び歩き出していた。


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