きよらかな指・2


 こちらに気づいた『美人』は、表情を堅くした。

 柔らんでいた眼差しが、氷のような笑みにすり替わる。

 それでもチャーリーは足を止めず、ついには相手のすぐ目の前までやってきた。

 間近で見ると、その美しさには一層驚かされる。

 陶器に紗を掛けたような肌に、睫毛の濃い、つり上がり気味の大きな瞳。そして、まだ雫の落ちている、ほっそりした白い手……

 青年は改めて感嘆の息を吐きながら、先刻の詩を呟いた。

 「“詩人の……」

「えっ」

 目の前の人物が、初めて声を出した。男性なら高め、女性なら低めに当たるその響きが、半ば陶然としていた青年から、最後の自制を奪った。

「“詩人のきよらかな指が掬えば……水は水晶の珠となる”」

 改めて唱いながら彼は白い手を取り、ほっそりした指に口づけると、そのまま雫を吸った。

 相手は無言のまま、抵抗もなく片手を委ねている。

 聖地の明るい陽射しの下、出会ったばかりの見知らぬ者同士が、まるで愛情表現のような行為をしている。

 どうしてこうなったのかと思いながらも、不思議と動揺は感じない。

 そっと相手の顔を窺うと、切れの長いマリンブルーの瞳が、微かに細められているのが目に入った。

 嫌悪か、嘲笑か、それとも……




 手を解放してやると、相手は急いだ様子もなくそれを引き戻し、ぽつんと呟いた。

「……取り越し苦労だったらしいね」

 先ほどと同じく、冷たい響きの中に、どこか人を酔わせる甘さを秘めた声。

「は?」

 間の抜けた問い返しに、碧い瞳が、皮肉めいた笑みで応じる。

「自分を知っている人間が、聖地にまで追いかけてきたのかと思った……どうやら、違うみたいだけど」

「はあ、お会いした事は無いと思いますわ」

 よく事情をのみこめないまま、チャーリーは答える。

「それで、君はどうしてあの詩を?」

「あ……いえ、さっき、水しぶき飛ばしてるお姿見てたら、何かこう、思い出してしまったもんで」

「へえ……」

 『美人』は軽く両腕を組むと、どこか面白がるような表情で見つめてくる。

(……あかん!聖地の人に怪しまれたら商売にもならんし、第一、女王陛下の指令もままならんやないか!)

 はっと我に返ったチャーリーは、商売用の愛想笑いを浮かべ、ことさら元気な口調で言った。

「ああ、自己紹介もせんと……俺は今度、庭園で店をやらせてもらう事になった商人です。どうぞご贔屓に」

 返事はなく、相手の表情にも変化がない。

(やっぱり、さっきの事を怒ったはる……やろな。まずい、まずいわあ!)

「さっきは、その、すんませんでした。ちょっと陽気にあてられたみたいで……もう、二度としませんから、ほんまに……」

「そんな事より……」

 謝罪の言葉をさえぎって、瑠璃色の美人が静かに聞いてきた。

「……君、本当は何者?」

「えぇっ!?」

 核心を突かれたウォン財閥社長は、思わず声を上げてしまった。

「いや、ですから……俺は露天商ですってば、普通の、どこにでもいるような!」

 碧い瞳の上で、見事な弓形を描いた眉が片方、少しだけ上がる。

「そう……まあ、いいけど」

 独り言のように言うと、相手は徐に岩から下り、歩き出した。

 (あああ、性別も分からんうちに、もう行ってしまうんか。せめて名前だけでも聞いておかんと……)

「あの、もし良かったら、あんたさんの……」

 追いすがるように声を掛けると、『美人』は足を止め、振り返った。

「……辺境惑星の古代詩を諳んじている人と話せて、楽しかったよ」

 チャーリーは、もう悲鳴さえ上げられなかった。

(あかんあかん、不自然すぎる!どこにでもいる普通の奴が、そんなもん知ってるはずないやないか!)

「これはその、ええと、前に古書を扱っていたもんで、そん時に……」

「……別に、理由なんて聞いてないんだけどね」

 あっさりと話を終わらせると、華奢な姿はそのまま歩き去って行く。

「いや、そやからあれは……あの詩は……」

 誰もいない空間に向かって、チャーリーは話しかけていた。




 やがて、滝の麗人は、後ろ姿さえ見えなくなった。

 大きくため息を付くと、チャーリーはがっくりと肩を落とす。

(……調子狂いっぱなしや。ほんま、どうかしてるで、俺)

 まだ商売を始めてもいないというのに、これではボロボロだ。これも聖地の特色だとすると、彼の前途は著しく困難にに違いない。

(さしずめ今のお人は、俺の“困難の走り”なんやろか……)

「それでも、また、会いたいものやなあ……あの“走り”さんに」

 色眼鏡の奧で、鋭すぎるはずの目を陶然とさせて、青年は呟いていた。


FIN
0009


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