おぼろげな華・3
「このワインの事は、僕も知ってた。だから逆に、君がどこまで知ってるか試してみたくなったんだ。好奇心っていうのかな、君って妙な知識が豊富そうだから。でも……あの店が、そんなに大切な存在だとは思わなかった」
セイランは立ち上がると、目を瞑って頭を垂れた。
「ごめん。気が済むまで謝るよ……殴ってくれても構わないから」
「……そっか」
呟きながら、青年が立ち上がる気配がした。
セイランは殴られる覚悟で歯を食いしばったが、次に彼が感じたのは、温かさだった。
「ああ……良かった。ほんまに良かったわ」
心底安堵したような声に、驚いて目を開いた若者は、自分が抱きしめられているのが分かった。
「ちょっと……これ、どういう……」
言い終わる前にセイランは両手を取られ、気付けば青年のリードで踊らされていた。
「嬉しいんや。あのオーナーが堕落した訳やないって分かって。俺もまた頑張れるって思ったら、すっごく嬉しくなったんや!」
「……ああ……そう」
抵抗もせず、ただ端麗な顔に混乱の表情を浮かべながら、若者が呟いた。
鼻歌混じりの妙なダンスを一節踊り終えたチャーリーは、セイランの体を解放すると、気持ちよさそうに深呼吸した。
「は〜、安心したら、急に腹減ってきたわ。なあ、今からあのレストランに戻ってもええ?」
料理は、本当に“美味しいもの”だった。
オーナーの配慮か、今度は幻のロゼこそ出なかったものの、代わりに出された酒類も充分に − 滅多にアルコールを摂らないセイランさえ、喜んで飲んだ程に − 質が高く、二人は存分に食事を楽しむ事が出来た。
「お、そう言えば」
チャーリーが、最後のコーヒーに口を付けながら、ふと腕時計に目をやる。
「ああ、もう12時か……ま、しゃあないな」
ミネラルウォーターを頼んだセイランは、からかうような笑みを浮かべていた。
「そんなに、時間が気になるのかい」
「いや、これはな……ああもう、面倒や。全部話したる!」
半ばヤケで、半ば楽しみながら、青年はバレンタインデーの話をした。
「……まあ、最近では単なる友情の証にも使われとるそうやけど。で、あんたに俺の愛情の証として、あの星空をプレゼントしたかったと、こういう訳だったんや」
転んでもタダでは起きない青年は、さりげなく告白を混ぜながら話を終えた。もっとも『今夜の予定』の一番最後の部分は、さすがに言えなかったのだが。
「面白い習慣だね」
セイランはサラリとかわし、グラスを干した。
(どこまでも、思いっきり冷静やなあ。この人の心を動かすなんて、俺にはどだい無理な話なんやろうか……会えるのが週に一回だけいうのも何やし、諦めろっちゅう運命のお告げなんやろうか)
珍しく気弱な考えが浮かび、ヘーゼルの瞳が遠くを彷徨った。
「じゃ、これは君に」
いきなり声を掛けられて我に返ると、セイランが先刻のワインを差し出している。
「は、俺に?」
「バレンタインデーのプレゼント」
チャーリーの頭の中は、輝く星で一杯になった。
「俺に……俺が……俺を……っちゅう事は……!」
セイランは、呆れたように溜息をついた。
「自分の言った事を忘れたのかい?“友情の証にも使われる”って」
「あ」
頭の中の星は、全てブラックホールに吸い込まれていった。
「……せやな。確かにそう言うた。言うたとも、ああ、言うた」
「君って……」
呆然と呟く青年を見て、セイランはおかしそうにクスクス笑うと、ラベルを指さした。
「まだ、今の気持ちが友情だなんて、断定したつもりはないんだけどね。ほら」
「“ロゼ”?」
「分かるかい」
暫くその文字を眺めていたチャーリーは、やがて顔を上げると、とっておきのウインクで答えた。
セイランを門まで送り届けると、チャーリーは自宅に連絡を取り、迎えを呼んだ。
冬の深夜とあって、さすがに人気のない路上で迎えを待ちながら、彼は若者が別れ際に語った言葉を思い出していた。
『何を喜びとし、何に傷つくかで、その人の度量が分かるっていうね。図らずも今日、僕はそれを知ってしまった訳だけど……見直したよ』
碧の濃い、大きな瞳が、微かに眩しげな表情を浮かべたと思ったのは、気のせいだろうか。
(“ロゼ”か……考えてみたら、そこまで思って貰えただけでも、夢みたいな話やなあ)
友情と愛情の中間の色をしたワインを、袋から取り出してみる。
(俺のプレゼントした香水、今夜つけて寝てくれたりして)
そんな事を考えながら、青年はラベルにそっと接吻したのだった。
FIN
0102