おぼろげな華・2
チャーリーがセイランを連れてきたのは、知る人ぞ知るといった感じの、こぢんまりとして家庭的なレストランだった。
主星でも超一流のホテルで料理長を勤め上げた男が、退職後に独立して始めた店で、値段こそ庶民的ながら、吟味された材料と確かな腕、そして料理に合わせる酒類のセンスの良さで、チャーリーのお気に入りになっている。
予約しておいた席に着くとすぐ、オーナーシェフの老人がにこやかに近づいてきた。チャーリーとはホテル時代から顔なじみなので、すぐに状況を悟ったらしい。
「いらっしゃいませ。コースになさいますか、それともアラカルトで」
「セイランさん、俺に任せてくれる?……そう、じゃあこれとこれ、それからこれ……」
料理を注文し終えると、間もなく老人は一本のワインを持って戻ってきた。
「食前酒は、こちらをお開けしましょうか」
「そうやなあ、今日は祝い事やから……」
「貸して」
黙って様子を見ていたセイランが、不意に口を挟んだ。
「どうぞ」
若者は、そっと差し出された瓶を受け取った。
「ずっと寒かったけど、今日はちょっとだけ、あったかいような気がするなあ」
「はい、先週までの事を思うと、多少寒さが和らいできたようです。このまま温かくなるとよろしゅうございますね」
チャーリーと老人が取り留めもない話をしている横で、セイランはラベルを眺めた。
“ドニ/ミスト ロゼ …………”
「僕はこれでいいよ」
と言いながら、若者は瓶を返した。
「どれ」
チャーリーがラベルをのぞき込む。
その顔が、一瞬にして険しくなった。
「お客様?」
怪訝そうな顔のオーナーシェフを無視して、青年は席を立った。
「セイランさん、すまんけど、食事はまた今度にしてもらえんやろか」
「いいけど……どうかしたのかい」
チャーリーは無言で出口に向かい、少し遅れてセイランも外に出た。
別の店に入り直す気にもなれず、苛立った足取りで落ち着ける場所を探していたチャーリーが辿り着いた場所は、結局、丘の上だった。
「星がよく見えるね……美しい」
若者が呟いたのは、本当なら、もっと楽しい気分で聞けたはずの言葉だった。
「それで、説明して貰えるのかな。さっきの事」
地面に座り込んだチャーリーの隣に腰を下ろし、セイランが聞いてきた。
青年は、立てた膝に肘をつき、片手を額にあてていた。
「本当に……すまん。折角の誕生日を、こんなにしてもうて」
「いいから、話を進めてくれないか」
伏せた顔から、長い溜息が一つ、流れていく。
「あのラベル……“ドニ/ミスト ロゼ 284年”って書いてあったやろ。惑星ミストのドニちゅうのは、古うからロゼワインの最高級品を作ってきた町なんや。生産量があまりに少ないんで、一般にはまず流通してないし、知られてもいないけど、特に281年から285年産っちゅうのは、奇跡的に当たり年が続いた時のもんで、幻のロゼとさえ言われてる」
「……それで?」
促すように青年の顔をのぞき込んだセイランは、その苦しげな表情に目を見張った。
「君……?」
「……確かに、281年から285年ものは逸品やし、あの店なら、手に入れて出してくれるのも分かる。けど……284年だけは、例外なんや」
チャーリーは両手に顔を埋め、掠れた声で続けた。
「その年ドニで大火事があって、ワインは一本も作られなかったのを、あのオーナーが知らんはずはない。俺たちは、偽物を出されたんや!」
星空の下を、冷たい風が吹きすぎていく。
短い沈黙の後、セイランが、不審そうに言い出した。
「つまり君は、偽物を出された事を怒ってるわけ?自分の知識を甘く見られた事を?」
「そんなんは、大した問題やない」
青年は低い声で否定した。
「俺は……あの店とオーナーを、気に入っていたんや。美味いもん出すからだけやない、あそこのやり方を、商売人として気に入ってた。年取ってるし、財をなした人やからいうのもあったろうけど、あのオーナーがいつも、ぎりぎりの採算ラインの中で、お客のために目一杯頭と手を使うて、ベストを尽くしてるのが、俺にはよう分かった。偽物なんて、死んだって出さへん店だったんや」
自分の言葉が全て過去形になっているのを、チャーリーは、悲しい気持ちで認識していた。
「……あんたには興味ない話やろうけどな、ある程度儲けが出るようになった後の商売っちゅうのを、俺は、野心と良心のせめぎ合いやと思うてる。“幾らでも儲けたい、商売大きうしたい”いう気持ちと、“やり過ぎたらあかん、お客さんの幸福と信用を第一に考えるんや”いう気持ちとを、自分の中でどう折り合い付けてやっていくか、それが一番の醍醐味やと」
青年は顔を上げ、星空を見つめた。
輝く数多の恒星を取り巻く、更に多くの、輝かざる惑星。そこには無数の居住区があり、こうしている今も、無数の商売が営まれているのだ。
だがそれは、一体どれほどの価値のある事なのだろう。
どれほどの幸福を生み出せる事なのだろう……。
「……もちろん、それは理想に過ぎん。折り合いなんて永遠に付く訳がないんやから、そないな、バラ色の雲掴むような夢追って悩んだりせんと、とっとと野心に走る方が、ずっと楽できるはずや。けど俺は……やっぱり夢を捨てとうない。現に、あのレストランは、俺にとっては理想に近いやり方をしてたから、ただそこにあるだけで、励まされるような存在だったんや……」
それ以上は言葉も出ず、チャーリーはただ辛そうに頭を振るだけだった。
「……ごめん」
突然、セイランが言った。
「悲しませるつもりはなかった。知らなかったんだ、君がそんな考えを持っていたなんて」
「セイランさん?」
狐につままれたような顔で、チャーリーは傍らの若者を見返した。
セイランは、片手に持っていた袋 − チャーリーは気付かなかったが、レストランを出てからずっと持っていたのだ − から、何かを出した。
「ライト、あるかい」
頷いた青年が、ペンライトを点す。
「こ、これっ……」
「“ドニ/ミスト ロゼ 284年”さ。さっきの店を出るときに、頼んで売ってもらったんだ」
「何でまた……そんな事を」
若者は黙って瓶に息を吹きかけると、その曇りを指に付け、ラベルをこする。
間もなく数字の“4”の線のうち、2本がにじみ始めたが、縦の一本線だけは変わらなかった。
「僕が最後の“1”に線を書き加えて“4”に変えたんだ。オーナーは281年産の、本物の幻のロゼを出してくれたのさ」
「あんた……」