ノ ヴ ァ
1.
止まるを知らぬ時の流れの中、また一つの恒星が、長い生の最後の時期に入ろうとしていた。
数代前の女王によって住民の退去が完了していたその星系の惑星は、既に肥大した炎の中に呑み込まれ、恒星自体も、間もなく始まる部分的な爆発 − ノヴァ − を契機として、消滅へと向かう収縮を始めるのだ。
ノヴァそのものは、聖地にある者からすれば、一代の御代に数回は発生する、さほど珍しくはない事態である。
しかし今回は、問題の恒星が主星から比較的近く、また、人間の住む惑星が密集している星域に位置しているため、周辺への悪影響の大きさを警戒した女王によって、王立研究院と派遣軍、そして守護聖たちのサクリアによる予防措置が、通常より大規模かつ慎重に執られていた。
夜の闇に溶け込んでしまったような暗色の館の主は、摂ったとも言えぬ量の食事を濃いコーヒーで締めくくると、ゆったりした黒い部屋着の姿を居間に移した。
大きな安楽椅子に深々と身を沈めると、服と同色の刺繍が施された袖口から白い手を延ばし、傍らの卓に置かれたデキャンタを取る。
その時突然、背後から、遠慮がちな声が聞こえてきた。
「クラヴィス様……夜分、失礼いたします」
座したまま振り向くと、部屋の入り口に、銀青色の髪の若者が立っているのが見えた。
「……リュミエール」
聖地に来て三年目の同僚であり、その二年目からは恋人でもあり、更にはこの館で、取り次ぎを待たず入室する事が許されている、唯一の存在でもある者の名を、クラヴィスは低く呼んだ。
若者は一礼して部屋に入ってくると、視線で促されるまま、館主の傍らに座る。
「おくつろぎの所を、突然お邪魔して、申し訳ありません……」
繊細で優しげな面からはいつもの微笑が消え、淡く色づいた小ぶりな唇も、続きを言い出しかねて、曖昧に閉ざされてしまう。
その様子を見て取った闇の守護聖は、静かに問うた。
「いつ、発つのだ」
深い海の色をした瞳が、驚いたように見上げ、それから、動揺を隠すように伏せられていく。
「明朝、集いが終わりましたらすぐに。周辺住民の不安が、ここに来て急に高まっているとの報告が先ほど届き、急遽決定されたと……そう記された書状が、先ほど私邸に届きました」
「そうか」
表情に乏しい端正な面に、仄かな陰りだけを見せて、クラヴィスが答えた。
ノヴァによる被害が、いくら予測され対応されてきたと言っても、それは物理的な側面に過ぎない。
通常より多くの人々がそれを目の当たりにする事による、心理的な悪影響の大きさは、王立研究院や女王といえども、はっきり予想できるものではないのだ。
そのため例外的措置として、守護聖の誰かが現場近くまで赴き、人心を安定させるべく、ノヴァの前後にかけて、集中的にサクリアを注ぐ案が以前から検討されており、その最有力候補がリュミエールだったのである。
無言のままグラスに酒を注ぐと、クラヴィスは再び、水の守護聖に視線を向けた。
出張を告げ終わって少し安堵したのか、表情を取り戻した優しい眼差しには、任務の重要さを自覚した強い意志が伺える。
だが、そこになおも微かに残る恐れと気後れを、クラヴィスは見落とさなかった。
「……どうした?」
原因の察しは付いていたが、あえて尋ねてやると、リュミエールは驚いたように目を見張り、それから申し訳なさそうに言い出した。
「はい……出張の期間ですが、現地の研究院や派遣軍の調査で、周辺住民の動揺が、ある程度収まったのを確認してからでなければ、戻っては来られません。これまでのノヴァの記録と現在の時流操作割合から見て、少なくとも聖地時間の二十日ほどは掛かりましょう。十日後のクラヴィス様のお誕生日をお祝いできず、申し訳ありません」
「致し方あるまい、事情が事情だ」
呟くように答えると、闇の守護聖は、グラスに唇を付けた。
今、口に出されたのは、気鬱の理由の一部に過ぎまい。
リュミエールが、初めて接するノヴァ − 周辺星系の惑星に残された動植物の最期でもある − に対し、以前から深い悲しみを抱いている事には、クラヴィスも気づいていた。
優しさと守護聖としての自覚ゆえに、決して言葉にしようとはしないだろうが、この繊細な若者にとって、ただ一人で間近まで出向き、それに立ち会うというのは、相当辛い任務となるに違いない。
(ノヴァ……か)
恋人を傷つけようとしている者の名を、クラヴィスは、呪うように心中で呼んだ。
「……忌まわしいものだ」
蒸留酒の薫り漂う中、突然聞こえてきた言葉に、青銀の髪の若者は驚いた。
「クラヴィス様……?」
「遙かな昔に辺境惑星の住民が、夜空に新たな輝きが生じたのを星の誕生と思いこみ、“新星”と称したのが、ノヴァという言葉の起源だそうだ……実際には、それまで見えなかった遠い恒星の、爆発光だけが届いたに過ぎぬというのに」
吐き捨てるように続ける薄い唇に、冷たい笑みが浮かんでいる。
だが、闇の守護聖のこの表情が、多くの場合、自嘲の現れなのを知るリュミエールは、細い眉を気遣わしげに寄せ、ただ相手の暗紫の瞳を見つめていた。
クラヴィスは、グラスの底に残った酒を一口に干すと、呟くように続ける。
「人の本性として、誕生だと思いたかったのだろう。よもや死が、終焉が、あのような輝きを先触れとして訪れるなどとは、考えも及ばず、また、考えたくもなかったのだろう。あのように巨大で、周囲の星系までも破壊してしまうような……」
まるで、自らの憎むべき所為を述べ立てるかのような、押し殺した声。
青銀の髪の若者は、いたたまれないように小さく唇を開いた。
だが、ノヴァに悲しみと恐れを抱いている自分に、何が言えるのかと思うと、一つの言葉さえ発せられなくなるのだった。
悄然としている間に力が抜けてしまったのか、何かが膝から落ちそうになるのを感じ、リュミエールは慌ててそれを手で押さえた。
「……あ」
思わず漏れた声に、黒髪の守護聖も注意を引かれ、視線を向ける。
「それは?」
「はい、あの……」
私邸から携えてきた小さな包みを、若者は遠慮がちに差し出した。
「お誕生祝いにと誂えておいた品を、お持ちしたのですが……受け取っていただけるでしょうか」
切れの長い双眸を、少しく細めて、クラヴィスがグラスを置く。
「そのために、来てくれたのか」
温かさを帯びた声と共に、包みを受け取った白い手が、慈しむようにその清楚な装いを解いていく。
中から現れたのは、珍しい色の貴石で作られた、細工も美しい香炉だった。
「煙り銀の水晶か……お前の選ぶものはいつも、私が選ぶ以上に、私の好みに合っているな」
平坦に語られた言葉に、心からの喜びと感謝が込められているのを感じ取ったリュミエールは、柔らかな声を弾ませて、祝いの気持ちを告げた。
「お誕生日おめでとうございます、クラヴィス様……少し、早いですけれど」
嬉しそうに微笑む繊細な面に見とれながら、黒衣の守護聖は、心中溜息をついた。
(そのように輝いた瞳で祝ってくれるのか……お前がひた隠しにしている恐れや悲しみの、源となる力を司る私を)
色素の薄い滑らかな頬に、クラヴィスはそっと手を添える。
熱を帯び赤らむ優しい面に、静かに顔を近づけていくと、青銀の睫が下がり、全てを委ねた無防備な表情になっていく。
唇に覚えた温もりが、感謝の軽い接吻に留まらないのに気づいて、若者は目を見開いた。
だが、身じろぐ暇もなく口腔を翻弄され、瞼は再び閉ざされてしまう。
それから、どれほどの慈しみを受けたのだろうか、切ない虚脱感の中、強い香の薫りにふと気付けば、細さに似合わぬ力強い腕から寝台に、そっと躰を下ろされている所である。
いつの間にか潤んでいる瞳ごしに、黒髪の恋人によって、自分の衣が解き落とされていくのが見えてくる。
「クラヴィス……さ……」
掠れた呼びかけを新たな口付けで遮り、クラヴィスは首筋から胸元に、その白い手を這わせていった。
少しずつ愛撫を深くしていくと、再び甘苦しげに身をよじり始めた若者の唇から、喘ぎが、そして悲鳴にも似た細い声が漏れていく。
やがて、掛けられる言葉の意味も分からぬほど惑乱したリュミエールを、愛おしげに見つめながら、黒髪の守護聖は囁いた。
「……せめて、ここで泣いて行け」
その言葉を契機としたように、クラヴィスは自らも黒衣を解くと、熱い情の流れに身を委ね始めた。