ノヴァ・2
2.
ノヴァが目前に迫り、安全と判っていても不安を覚えずにいられない周辺星域の民にとって、水の守護聖の来訪は、何よりの癒しとなった。
近い距離から夜毎に放たれるサクリアが、幾つもの星系を満たしながら、平穏と他者への愛を蘇らせていく。
また、守護聖その人の姿を目の当たりにできた者たちは、奇跡のような優しさと美しさに胸を打たれ、波紋のように周囲に優しさを広げていく。
そうやって、人々が少しずつ落ち着きを取り戻していく中、ただ一人の若者だけが、密かに心労と不安を募らせていた。
主要惑星を巡る行程は機密とされているため、人目に付かない場所に設けられた特別貴賓館で、リュミエールはその夜の分のサクリア放出を終え、与えられた寝室に入っていった。
世話役を下がらせて扉を閉め、ほっと息を付くと、優しい面は俄に憂いに染まっていく。
(明日、ついにノヴァが始まる……)
人前では保っている平常心が、こうして独りになった途端、疲労感と入れ替わるように消え去ってしまう。
既に恒星に飲み込まれた惑星よりも、更に多くの、近隣惑星の動植物の死。それと共に始まる、一つの星系の、完全な終焉……
思う度に、悲しみに胸がふさがれる。恐ろしさのあまり、立っている事さえ辛くなってくる。
(いけない、私がしっかりしなければ……ここの方たちも、研究院や派遣軍の方たちも、陛下や他の守護聖たちも皆、頑張っているというのに)
若者は、青銀の髪を波立てて頭を振り、それから隣の浴室に向かっていった。
衣を解きかけ、ふと鏡を見ると、滑らかな乳白色の肌には未だ、紅の痕跡が薄く残っている。
(……クラヴィス様……)
伸びやかな躰を湯に沈めながら、リュミエールは出発前夜の出来事を思い出す。
暗い自嘲の声で語られた言葉、激しい愉悦の中で微かに聞こえてきた − 何を言っているのかまでは分からなかったが − 囁きの、苦しげながら優しい響き。
繊細な面に意志の色を現して、若者は一人頷いた。
(ちゃんと見届けよう、ノヴァを……どれほど恐ろしく思えようと、あの方のお力に基づくものなのだから)
翌日、水の守護聖は、遮光ガラスが一面に巡らされた施設に案内された。
熱や衝撃が悪影響を及ぼさない範囲で、最もノヴァに近い場所に設置されたそこには、惑星の首長と大神官、そして研究院と派遣軍の担当者が、既に集まっている。
「変光は予測通りの経過をたどっています……ノヴァ開始予想時間まで、あと200サイクル」
観測器の担当官を除き、その場にいる人々は皆、ガラスの外に目を向けた。
まだ終焉とは縁のないこの星系の太陽が、間もなく地平に没しようとしている。
昨日までと、何も変わらないような夕闇が、静かに訪れようとしている。
その時。
「始まりました!」
観測官の言葉を聞くまでもなく、部屋一面を、強烈な光が照らし出した。
「これが……ノヴァ」
誰とも無く呟かれたのは、居合わせた全員の心に生じた、ただ一つの言葉だった。
破滅と終焉の叫びのような、果てしなく巨大で激しい爆発光。
幾世紀も前から予測されていたとはいえ、それは、人々の心に衝撃をもたらさずにいられなかった。
だがリュミエールは、その中に、一筋の静寂を感じていた。
(この感覚……死へと向かう……変光……)
『……見るが良い』
宵闇の中に溶け入ってしまいそうな黒髪の青年が、静かに声を掛ける。
リュミエールは、竪琴を弾く指を止め、相手の方を見やった。
石造りのバルコニーの外に、部屋から漏れて来る弱い照明とは明らかに異なった光が、点々と灯っている。
『蛍は初めてか?……聖地でも、滅多に見られるものではない。運が良いな』
『これが……蛍……何と美しい……』
息づくように点滅しながら闇を舞う小さな光を、リュミエールは幻惑されたように見つめていた。
クラヴィスもまた、切れの長い目を細め蛍を追っていたが、しばらくして、低い声で呟いた。
『この命の、最後の輝きだ……お前に愛でられるなら、本望だろう』
『今、何と……?』
驚いたように聞き返す声に、小さな光が少しだけ遠ざかるのを眺めながら、闇の守護聖は無表情に言った。
『この虫は、その生の殆どを幼虫として水中で過ごす。成虫となって光り始めてからは、食も摂らず、数日で命を終えるのだ』
青銀の髪の若者は息を飲み、それから震える声で答えた。
『知りませんでした……何も知らず、この美しさを目の当たりにできた事を、ただ喜んでおりました』
自分に見る資格はないというように、悲しげに面を伏せたリュミエールに歩み寄ると、クラヴィスは竪琴をそっと取り上げた。
『では、もっと見るが良い』
『クラヴィス様……?』
驚いて顔を上げると、そこには、想いを通じ合ってまだ間もない相手の、どのような闇よりも深い眼差しがあった。
ノヴァの発生と被害報告は、聖地にある守護聖たちにも伝えられた。
だが、ほぼ予測どおりの状況であり、物理的被害も予想を超えるものではなかったため、女王以下補佐官、守護聖たちは皆安堵していた。
それから数日後、クラヴィスの誕生日がやってきた。
比較的気心の知れた守護聖たちが、執務の合間を見ては訪れ、祝福の言葉やプレゼントを贈っていく。
だが、最後に執務室を訪れたのは、女王補佐官ロザリアだった。
「今日は、あなたのお誕生日でしたわね。おめでとう、クラヴィス」
「……祝いの言葉、感謝する」
嬉しくもなさそうに応じる闇の守護聖に笑いかけると、補佐官は一つ咳払いして、言い出した。
「でも、もっと良いものがありますの。先ほどリュミエールから、あなた宛と私邸の家令あて、二件の私用連絡申請が出たので、特別に許可して……任務も順調なようですし、“時期が時期”ですものね」
青い髪の補佐官が、自分たちの関係をどこまで知っているのか訝りながら、クラヴィスは恋人のメッセージの内容を促した。
「それで……何と言ってきたのだ」
「ええ、こちらにお持ちしましたわ」
話を遮られ進められて、少し戸惑ったような表情になったロザリアは、一枚の通信用紙を差し出した。
“お誕生日を、遠い地よりお祝い申し上げます。
恐れ入りますが、もしご予定がなければ今夜、先日私がお訪ねしたくらいの時刻に、水の館まで、お運びいただけないでしょうか”
自分が留守にしている私邸に呼び出して、どうしようというのだろう。家令に何か託しているのかとも考えられるが、既にプレゼントは受け取っているのだ。
不審に思いながらも、闇の守護聖は黙って頷いた。