Seashore Song 〜 渚の歌 〜


1.


 「違う……」

 竪琴を手にした青年は、表情を失って呟いた。

 銀の光を放つ薄青の髪を潮風に靡かせながら、うつろな目で周囲を見渡す。

 遮るものもなく頭上から降り注ぐ陽射しは、鋭いほどに眩しく、泡のレースで縁取られた波が、足元の砂を誘うように寄せてくる。

 そして、眼前に広がる碧青は、忘れた事もない海の色。

 数える事も能わぬ歳月の間、恋いこがれた故郷の景色そのもの、なのに……

「……まさか」

 掠れる声をかき消すように、新たな波が音を立てて崩れた。






 その命令がもたらされたのは、僅か三日前の事だった。

 普段にも増して強靱な自制心の現れた表情で、首座の守護聖は告げた。

「この度、陛下の有り難い思し召しにより、我ら全員が休暇を取る事になった」

 8人の守護聖によるどよめきが、集いの間に響き渡る。

 間違いなく、これは聖地始まって以来の椿事であろう。が、全ては決定されてしまっていたのだ。

 守護聖、前回の試験協力者、更に、芸術院開設前夜の事件によって、"改めて"巡り会ったアリオスの計16名が、海・森の二班に分かれて送りだされ、それぞれに休暇を過ごしてくるという、これは勅命である。

 驚きのあまり、野次も異議も質問も出ない守護聖たちに、それぞれの行き先についての資料が配られ始める。

 リュミエールの見て居る前で、闇の守護聖は、緑色の表紙のファイルを渡された。

 だが次に、彼自身に差し出されたファイルには、青い表紙が付いていた。




 「……森へ行かれるのですね」

執務室に戻る道すがら、リュミエールは、クラヴィスに話しかけた。

「……お前は、海か」

「はい……」

 水の守護聖の優しい面に、微妙な色が落ちる。

 彼ら二人は、公には出来ないながらも、想いを深く通じ合った仲である。例え数日と言えど、離ればなれになるのが寂しくない訳がない。

 しかし同時にリュミエールは、心の底からわき上がるような喜びをも、認めずにいられなかった。

(海に行ける……海が見られる……)

 彼は海洋惑星に生まれ、聖地に来るまでの年月を海辺で過ごしてきた。その地を愛する気持ちは殊の外強く、夜毎の望郷の調べにようやく紛らせているほどである。

 まれに職務で海の近くに行く事もあったが、海辺で一人ゆっくりと過ごすなど許される筈もない。

 だが、今回は違う。砂浜に面したコテージに滞在し、好きなだけ海を見つめて過ごす事ができるのだ。

 「……良かったではないか」

「え?」

 唐突に掛けられた言葉に、青銀の髪の守護聖は、思わず歩みを止める。

 見上げた紫の瞳には、恐らくはリュミエールにしか見つけられない、仄かだがこの上なく優しい表情があった。

「ロザリアは、リゾートビーチだと言っていた。良くは知らぬが、おそらく亜熱帯気候の美しい浜辺なのだろう……話に聞く、お前の故郷のように」

「クラヴィス様……」

 心を見透かされた恥ずかしさ、恋人よりも故郷を想ってしまった居たたまれ無さに、リュミエールの白い面が、紅に染まる。

 闇の守護聖の喉から、クッと小さな笑い声が漏れた。

「……あれほどに恋いこがれた海だ、思うさま楽しんでくるが良い」

 いつか歩き着いていた自分の執務室の扉に手を掛けながら、クラヴィスは気分を害した様子もなく言う。

「クラヴィス様……っ!」

 そのまま室内に消えていこうとする姿に縋るように、リュミエールは部屋に滑り込んだ。

「お待ち下さい、あの……」

「リュミエール」

 長い腕が、青年の背後の扉を閉めると、そのまま肩を抱く。

「……故郷の記憶を持つ者にとって、そこへの想いは、断ち難く強いものなのだろうな」

 水の守護聖の、深い海の色をした瞳を見つめながら、クラヴィスは言葉を続けた。

「私には無い痛みを、お前は持っている……だからこそ、お前を少しでも癒してくれようこの休暇を、私は喜んでいるのだ」

「……クラヴィス様」

 白く長い指の下で、細い肩が震えている。

 これほどに寛い心で愛されているのが幸福過ぎて、リュミエールは涙を堪えるのに精一杯だった。

「だが、まだ旅立ちまで二日ある。その間は……」

 言葉を終えるより早く、クラヴィスは薄紅の唇を奪う。

 いつか伏せられた青銀の睫毛は、もう、こみ上げる雫を押さえられなくなっていた。






 そして、ヴァカンスの初日。

 海班の八人は、代表者ジュリアスのコテージで「簡単な」訓辞が終わると、いよいよ解散となった。

 コテージとは名ばかりで、実際には広々とした十数部屋を備えた、通いの使用人付きの立派な家屋である。十分すぎる間隔をおいて、美しい入江を巡るように何件も建てられているそれらが、一人に一件ずつ宛われているのだ。




 自分のコテージに着くと、リュミエールはすぐにテラスに向かった。

 そこは、記憶にある故郷そのままの場所だった。

 白い砂浜に、真っ青な海。燦々と降り注ぐ陽射しも、潮の香りも、全身に受ける熱い風も、まるで……

 青年は目を閉じ、腕を広げ、そっと囁いた。

「……ただいま」 




 到着したのが午後だったので、そのまま荷物の整理などしている間に、日は暮れていった。

 リュミエールは、美しい夕陽を堪能しながら、軽い食事を摂る事にした。

(クラヴィス様は、ちゃんと召し上がっていらっしゃるでしょうか……)

 少し心配ではあったが、慣れぬ旅の疲れか、もう睡魔が襲ってくる。

 早めにベッドに入り、優しい波音を聞く内に、いつか彼は安らかな眠りに落ちていった。 




 翌日になると、同じ班の仲間達が顔を出し始めた。

 コテージには、一つとして同じ造りのものがないため、一部の好奇心旺盛な者たちが、「お宅拝見」をして回っているのだ。

 給仕の差し出すコーラを受け取りながら、好奇心旺盛第一号のランディが言う。

「リュミエール様、俺のコテージのすぐ近くから、ウォーターバイクに乗れるんですよ。クルーザーも使えるから、少し沖に出てパラセーリングやダイビングもできそうなんです。良かったら、あした一緒にどうですか?」

「やりましょうよ、リュミエール様!後でぼく、エルンストさんも誘ってみるつもりなんですよ」

 好奇心旺盛第二号のメルも、弾んだ声で、とんでもない事を言っている。

「ちょっとちょっと、リュミちゃんはね、あんた達みたいなヴァイタル小僧じゃないんだよっ」

 口を挟んだのは、同上三号こと、UV対策アドバイザーと自ら名乗るオリヴィエである(因みに、彼に言わせるとリュミエールは、「こんな気候の所で育ってその肌だってくらいのケア要らず、驚異の天然抗紫外線肌」なのだそうだ)。

「折角、大好きな海に来たんだもの。取りあえずは思いっきり、絵を描いたり竪琴を弾いたりしたいんでしょ?……あ、私のアイスティ、レモン二枚入れてね」

 ビタミンC補給に余念のない夢の守護聖に、リュミエールは静かな感謝の笑顔を向けた。

 冗談めかしてはいるが、自分がどんなに故郷を恋しがっていたかを思い、彼なりに気を回してくれているのだ。

「みんな!ヴァカンスは長いんだから、焦る事はないのさ」

 ラメ入マリンブルーのマスカラも麗しく、オリヴィエはそう言うと、軽いウインクでリュミエールに答えて見せた。

 そうこうしている内に日は暮れて、来客達はそのままリュミエールの食堂で夕食を共にしてから、それぞれのコテージに戻っていった。

 再び静けさを取り戻した夜の中、青銀の髪の青年は、また恋人の事を考えていた。

 その思いが、運搬用のケースから出したままになっている竪琴に、目を向けさせる。

「潮風に当たって、少し弦が傷んでいるかも知れませんね……今日はもう遅くなってしまいましたから、明日、手入れしてあげましょう」




 三日目の朝が来た。

 朝食を終えたリュミエールは、弦に異常がないのを確かめると、竪琴を手にテラスへ出ていった。

 聖地で毎夜のごとく、歌うように奏で続けてきた故郷の曲を、この海にも捧げようと思ったのだ。

 だが、慣れ親しんできた調べは、流れなかった。

「……え?」

思わず、自分の指を見る。

 二日間弾いていなかったので、鈍ってしまったのだろうか……だが、音程もリズムも強弱も、どこも間違ってはいない。

 もう一度、試みる。

「違う……」

 同じように弾いているのに、響きの何と空虚であることか。故郷を想う切なさが、今は海を見た喜びに変わって、音を彩ってくれるはずなのに。

 いつも故郷を想う時、涙の代わりに流れ出していた旋律。

 (あの方も、気に入って下さった曲なのに……)

 その時、愛する人の面影と共に、彼の胸に痛みが走った。

「……まさか」

 叶えられた望みさえ喜びに結びつかないのは、このせいだったのか。

 かの人の側にありながら、望郷の想いに囚われていた自分が、今は……夢にまで見た海に来ていながら、心が満たされない。

「何という事……一体いつの間に、私はこれほど欲深くなってしまったのでしょう……」

 嘆息に答える者もなく、青年はただ愕然として、輝く海を見つめていた。


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