Seashore Song・2

2.


 そして、また日没が訪れた。

 降るような満天の星も目に入らず、リュミエールはぼんやりとテラスに座っていた。

 と、いきなり夜空の一角が、金色に変わる。

「あれは!?」

 思わず身を起こした時、ぱあんという音と共に、光は消えていた。

(花火……ランディたちでしょうか……)

 しかしその目は、宵闇に利かぬ視界を、食い入るように見つめている。一瞬照らし出されたそこに、先ほどまでは無かった何かを、彼は見たような気がしたのだ。

 再び空が、今度は、紅い大輪の花のように光り、テラスからほど遠からぬ波打ち際に、ある輪郭を映し出して消える。

 リュミエールは立ち上がると、素足のまま暗い砂浜に下りていった。

 やがて三度目の光が、辺り一帯を紫色に染め上げた時、渚沿いに近づいてくる人物が、彼の目にもはっきりと見えた。

「クラ……ヴィス、様……?」

 立ち止まって呼び掛けた声に、確かに頷き返す、懐かしい姿。

「クラヴィス様!」

 青年は走り出した。

 波に濡れるのも、重い砂に足を取られるのも、気にならなかった。

 ただ、その人の腕を、心に体に刻み込まれた感触を求め、彼は夢中で身を投げ出していた。




 「……どうして、こちらへ?」

 気の遠くなるような幾度もの接吻の後、リュミエールはようやく疑問を口にする時間を与えられた。

 闇の守護聖は、面倒そうに答える。

「自分たちにも海水浴させろと、子どもたちがあまりうるさく言うので、今日全員でこちらに移動したのだ……どうも裏では、オスカーが一枚噛んでいたようだが」

「では、あの花火は……ゼフェル?」

「……恐らく、な」

 説明に飽いたらしく、クラヴィスは長い指でリュミエールの髪を軽く梳いた。

 それだけで、嘆きが癒される。優しい気持ちが蘇ってくる。

 潮の香りの中でも感じられなかった安らぎが、ここにある。自分の還る場所が、ここに……

「嬉しいです……お会いしたかった……」

 囁きに応えるように、クラヴィスの腕に力がこもる。

 頭を軽く傾けられ、青銀の髪から現れた白い首筋に、熱く濡れた感触ががもたらされた。




 四日目の朝日は、気だるい体を、清冽な光で目覚めさせてくれた。

 窓に背を向けて眠り続けるクラヴィスを残し、リュミエールはそっと寝台を後にした。

 シャワーを浴びて衣服を身につけ、居間に入ると、部屋の隅に置かれた竪琴が目に入る。

(今なら、きっと……)

 恋人を起こさぬようドアを閉め、テラスに出た青年は、そっとそれを奏でてみた。

 気持ちのいい、流れるような調べが風に乗り、穏やかな海に広がっていく。

 リュミエールは安堵の息をもらし、更に数曲を奏でていたが、ふとその面を曇らせると、楽器を置いて立ち上がった。




 波は途切れる事無く寄せ、そして、返していく。

 永遠に終わらないかのような動きは、止むを知らぬ時の流れを思わせる。

(今はこんなに幸福だけれど……時は流れ、いつかは、クラヴィス様とも……)

 水の守護聖の白い面が、海の色を吸ったかのように蒼ざめる。

 絶えず命を生み出し、岸辺へと運び続ける海が、まるで無慈悲な未来のように感じられる。抗いようもなく押し寄せる時間に、否応なく現在を奪われて、後に残るのは、ただ白い砂だけなのだ。

 かつては岩盤であり、あるいは城塞や神像であったかもしれぬそれらは、もう何も語りかける事なく、自らの存在さえ忘れたかのような、永遠の虚無に帰している。

 海原は未来、砂は過去……

 そして現在は、この波打ち際の線のように、儚いのではないか。




 「……何を考えている」

 いきなり背後から声を掛けられ、リュミエールは悲鳴を上げそうになった。

 振り返ればすぐ前に、まだ乾ききらぬ洗い髪も艶やかな、長身白皙の姿がある。

「美しい調べが途切れたと思ったら……どうした」

「クラヴィス……様……」

 朝の陽を受け、透き通るように明るんだ紫の双眸に、自分が何も隠し立て出来ないのをリュミエールは知っていた。




 「私は……強欲な人間です」

濡れた砂と水との境目を、二人は肩を寄せ合い、歩いていた。

 デザイン違いの白いシャツは潮風に靡き、それぞれの髪の色に合わせたズボンが、時折の強い波に裾を洗われそうになる。

 「……聖地で私は、クラヴィス様のお側にありながら海を想い続け、海に来てみれば、クラヴィス様を想って、やはり心が満たされません……」

「それは……強欲ではない」

「いいえ」

 リュミエールは、唇を噛みしめた。

「そう仰って下さるお優しさは身に染みますが……いつか、故郷に一人戻った私は、今度はきっと、夜毎にクラヴィス様を想う歌を奏で続けるのでしょう、強欲の罰として」

 うつむき加減に歩を進めていたクラヴィスは、ふと足を止めて問いかけた。

「恐れているのか、未来を……」

「……はい」

朝の光にさえ怯えるように、青年の瞳は震えている。

「クラヴィス様は……恐ろしくないのですか?」

 闇の守護聖は、暫く無言でその様子を見つめていたが、やがて黒い睫毛を伏せると、静かに口を開いた。

「嘗ては、そうであった……失う事を恐れ、現実から目を背けていた。先のことを思い煩い、目の前にあったかも知れぬ幸福を信じられず、ただ徒に自分の時間を、無価値なものと貶めていた……だが」

 再び開かれた瞳が、真っ直ぐに恋人の目に向けられる。

「お前の心の強さ……何者からも逃げようとせず、諦めようとしない、その強さに触れた時、私は変わり始めたようだ……」

「クラヴィス様……」

 小さく呼び掛ける青年の手を取り、クラヴィスはそっと口づける。

「……だから、気づく事ができたのだろう。闇を知る者にしか見えぬ輝きがあるように、己の敗北を見据えられる者にしか、得られぬ勝利があるのだと」

「時の流れに……人が勝利できるのですか?」

「負けぬ、と言い換えてもよい……」

 闇の守護聖は小さく笑うと、空いた手で恋人の肩を引き寄せる。

「ただ、こうすればいいのだからな」

 そのまま顔を近づけてくるクラヴィスに、リュミエールは咎めるように声を上げた。

「お止め下さい、その様にはぐらかして……お戯れだったのですか、今おっしゃった全てが!」

 激しながらも悲しげに潤む青い瞳を、闇の守護聖は静かに見返す。

「いかなる未来にも……くすまされ得ぬ現在を、お前と共に持ちたい」

「……え?」

「それが、私の見出した、ただ一つの答だ」

 いつものように低いクラヴィスの声は、しかし、決して潮風に紛れる事なくリュミエールの耳に届いてくる。

「いかなる未来にも、くすまされ得ぬ、現在……」

 繰り返すリュミエールの視線は、海へ、砂浜へと移り、そして渚へ戻ってくる。

「例え失われても、永遠に、損なわれる事がない時間……」

「それこそが最後の財産であり、虚無にうち勝つ為の、最後の武器となろう……」

 闇の守護聖の声が、青年の言葉を引き取った。

「……申し訳ありません」

 リュミエールは、身の置き所もない様子で謝罪の言葉を述べる。

「私が浅はかでした……お考えも知らず、愚かな事を口にしました」

「……気に病む事はない。ただ、真実の楽しみを見出し、輝き続けるがいい。所詮、私たちが守護聖である歳月も……いや、生ある間全てが、永い一つのヴァカンスなのかもしれぬのだから」

 呟くように言うと、クラヴィスは再び恋人の体を抱き寄せる。

 一つになった影の足元で、波と砂は、いつまでも美しい交錯を繰り返していた。

 歩いていきましょう
 波と砂の出会う処を
 未来と過去の間を

 たとえ
足跡が消えてしまっても
 今、踏みしめるこの場所は
確かに私たちのもの
 巡り会えた幸福が永遠になるように
 精一杯の歩みを進めましょう……


 美しい竪琴の音が、入江に流れ渡る。

 それは、まるで言葉を持つ歌のように思いを運び、聞く者たちの心に深く染み通っていった。
FIN
0008


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