白 椿
「今、何と言った」
低い声のもたらす波動が、肌から直に伝わってくる。
そこには、予期していた以上の不興が籠められていた。
「申し訳有りません!」
リュミエールは謝罪を繰り返しながら、不自由な姿勢を変えようとした。
だが、その胸に乗せられた黒髪の頭は、位置を移そうとしない。頑なに窓を向いたままなのは、表情を読ませまいとしているのだろうか。
(クラヴィス様……)
心の震えを吐息に逃がしながら、青銀の髪の青年は途方に暮れていた。
怒りを買うのも無理はない。やっと想いが通じたばかり、土日を共に過ごすようになって、まだ数えるほどの週しか経ていない恋人に、大切な逢瀬の一日を、断ってしまったのだから。
会話が始まったのは、ほんの数分前だった。
『次の週末は、流星が多く見られるそうだ……私の居間から眺めるのがいいだろう』
情交のなごりの微睡みの中、恋人の胸に頭を預けたまま、クラヴィスが呟く。
その言葉で覚醒したリュミエールは、何日も言い出しかねていた言葉を、思わず口にしてしまったのだ。
『申し訳有りませんが、その日は……都合が悪いのです』
『………………今、何と言った』
長い沈黙の後、クラヴィスの聞き返す低い声が、薄い胸を通じて響いてきた……
「何と言った、と聞いたのだ」
漆黒の髪の男が、再度の問いと共に顔を上げると、赤い痕と熱の余韻が胸に残った。
相手の、普段にも増して血の気の失せた面を見て、リュミエールは激しい後悔に襲われた。
「何でもありません、お忘れ下さい……」
「リュミエール!」
怒気を含んだ声と共に、闇の守護聖が身を起こす。
追うように起き上がった青年は、青銀の睫毛を伏せると、観念して答えた。
「……その日は都合が悪い、と申しました」
「都合、とは」
切れの長い眼を幾分細めて繰り返す黒髪の恋人に、リュミエールは震える声を振り絞り、ありのままを告げる。
「はい、来週の土の曜日は、聖地の一年に換算しますと、ちょうど故郷の一番大きな祭日にあたります。私はいつも、その日だけは夜を徹して、彼の地に演奏を捧げてまいりました。ですから、身勝手は承知でございますが、次の土の曜日も、そのように過ごしたいと……だから、お逢いできない……と……」
これはリュミエールが、後輩の守護聖たちに悪い影響を与えまいと、人知れず始めた習慣だった。数百日ごとに一夜だけ、存分に故郷を思う事によって、人一倍強い望郷の念を、どうにか抑えようとしているのだ。
もちろんそれが、身勝手と言われれば返す言葉もない、個人的な都合だというのは、自分でも分かっている。
だが、気持ちに無理をして逢っても、却って不誠実なのではないか。それにきっと、闇の守護聖の鋭い勘が、すぐ真実を見抜いてしまう事だろう……
迷ったあげく、やはり正直に告げるべきだと決心したリュミエールは、それでもつい、言い出しかねていたのだった。
だが、それが、このような事態を招こうとは……
俯いていた水の守護聖は、不意に、全身に被さる重さを感じた。
「それほどに、故郷が恋しいか……」
仰向けに倒され、思いがけない強さで、両の手首が戒められる。
「クラヴィス様!?」
「お前の心は、私が占めていると……思っていた」
手首を掴む指に、ぎりっと力が入り、リュミエールは苦痛にのけ反った。
露わになった首筋に、噛みつくような接吻を浴びせながら、クラヴィスは両の手を恋人の躰に這わせ始めた
「満たされぬというのか……私では……」
「い……いいえ、そんな事は……っ」
いつもは慈しむように肌を辿る長い指が、今は思い知らせるかのように、容赦なく刺激を刻んでいく。
「……その心を……埋める事は出来ぬと……」
「……ち……ちが……っっ!」
抑揚のない低い呟きは、恐怖さえ呼び起こす。だがそれも今は、昂ぶりを促すものでしかなく、既に言葉を発する事も叶わないリュミエールは、ただ激しく首を振るだけだった。
(違う……違う……そんなつもりでは……!)
果てもない刺激に翻弄され、海色の瞳から涙が流れ出す。
やがて − クラヴィスは、唐突に動きを止めた。
ようやく開いた目に映る、闇の守護聖の、驚くほど淋しげな表情。
(……クラヴィス……さま……?)
だが次の瞬間、彼の躰は熱い塊を受け、全ての意識が飛ばされてしまった。
夜も明けぬ内に、リュミエールは目を覚ました。
失神するように就いた眠りは、苦しい夢ばかりの浅いものでしかなかったのだ。
(クラヴィス様……)
仄かな灯りの下、普段と変わらない寝顔の恋人を、青年は無表情に見下ろした。
今まで受けた事もなかった手荒な扱いのせいか、躰も心も、まるで我が物ではないかのように、麻痺してしまっている。
しかしその耳には、最後の意識の中で聞いた言葉が、まだ響いていた。
『お前の心は、私が占めていると……思っていた』
『私ではその心を……埋める事は出来ぬと……』
恐怖をもって聞いた声が、今は痛々しく感じられる。
永きに渡って側にいながら、あれほどに辛そうな顔は、一度も見た事がなかった。
(……私が……この私が、傷つけてしまった…………誰よりも、大切な方なのに…………)
呆然と白皙の面を見つめるうちに、肩が、そして全身が震え出す。
(一体、どうしたら……)
故郷を忘れられたら。クラヴィス様への気持ち以外、何も心に持たないでいられたら。
「けれど、どうしても、忘れられない……私の力では……」
涙さえ出ない絶望の中、リュミエールはあてもなく視線を彷徨わせた。
そうしているうちに、心は一つの考えに、狂おしく収束していった。
クラヴィスは重い瞼を開け、それからゆっくりと起き上がった。
(……リュミエール?)
水の館の広い主寝室には、人の気配がしなかった。
いつもの週末なら、たとえ先に起き、湯を使った後であっても、青銀の髪の青年は必ず寝室に戻り、静かに恋人の目覚めを待っているのだが。
昨夜の事で傷ついたのかと、後悔が胸を刺す。
だが − そうだとしてもなお、リュミエールは、このような行動を取らないように思われる。
(どうしたというのだ、一体)
何の音も気配もない、痛いほどの静寂。
普段の朝であれば、静寂は快いものだった。ただ、今日が週末であるがために、いる筈の者がいないがために……
「っ……」
こめかみの奧が疼くような不快感に、クラヴィスが思わず息を詰めた時、控えめなノックの音が聞こえてきた。
一呼吸置いて低く答えると、水の館の家僕が、一通の封書を運んでくる。
黒髪の守護聖の目に、見覚えのある文字が飛び込んできた。
“クラヴィスへ、至急お読み下さい。ルヴァ”