白 椿・2


 クラヴィスとリュミエールにとって、ルヴァは、二人の仲を知る数少ない人物の一人であり、心から応援してくれる大切な友人でもあった。

 だが今は、それをありがたがっている余裕はない。

 地の館に急行し、簡素で落ち着いた客間に通されたクラヴィスは、珍しくも苛立った様子で主の来室を待った。

 「あー、お早うございます、クラヴィス」

いつもの、のんびりした調子で声を掛けながら、地の守護聖が姿を現した。

「申し訳ありませんね、日の曜日の朝からお呼び立てして……おや、もうじきお昼ですか」

「ルヴァ、これは何だ」

 闇の守護聖は、投げ出すように封筒をテーブルに置いた。

「“リュミエールの事で話がありますので、すぐに来て下さい”……そう書いてありませんでした?」

 穏やかな微笑みに、少しだけ疲労の色を滲ませて、ルヴァは向かいの椅子に腰を下ろした。

「今朝早く、ここに来たんですよ、リュミエールが」

 眼を見張るクラヴィスに向かって、地の守護聖は、数時間前の出来事を話し始めた。




 客間に着いたルヴァが眼にしたのは、蒼白な面でぐったりとソファに身を預けている水の守護聖の姿だった。

 『リュミエール!どうしたんですか』

『……突然押し掛けて、申し訳ありません、ルヴァ様』

痛ましいほどに掠れた声。

 『そんな事より、具合が悪いんじゃないですか?何か、私に出来る事があったら……』

 狼狽する地の守護聖に答えようと、リュミエールはゆっくり身を起こす。

『ルヴァ様、お願いです。お手持ちの薬を、私に譲っていただけないでしょうか』

『それは、お役に立つなら、何でも差し上げますが……』

 ルヴァの言葉に、青銀の髪の青年は、安堵したように微笑む。

『ああ、良かった……本当に、よろしいのですね、約束して下さいますね』

『はいはい、約束しますから、さあ、まずはお茶でも飲んで』

ちょうど運ばれてきた熱い緑茶を勧めながら、温厚な地の守護聖は、労るように微笑み掛けた。

 しかしリュミエールは、茶碗に手を出そうともせず、言葉を重ねる。

『あの、以前、椿の実から作った薬をお持ちだと伺いましたが』

『椿の実……ああ、あれですか。カメリオラ・ブランシアという木の実のエキスを、特殊な製法で精製して作るんですよ。ほら、庭に八重の白椿が咲いているのが見えるでしょう、あれに近い種で、よく似た綺麗な花をつける木なんですがね』

 そこまで話して、ルヴァは怪訝そうに首を傾げた。

『でもリュミエール、あの薬に体を癒す効果はありませんよ。ただ……』

『記憶を消す効果がある、そうでしたね……それを、お譲りいただきたいのです』

 地の守護聖は、あっけに取られて来客を見つめた。

 やつれの隠せない顔に浮かぶ優しい微笑の中で、青い両の眼だけが、異様なほど輝いていた……




 「記憶を消す薬、だと?」

 黙って話を聞いていたクラヴィスが、不意に口を挟む。

「リュミエールが、なぜそのような物を」

 そこまで言った闇の守護聖が、たちまち表情を凍らせるのを、ルヴァは黙って見守っていた。

「まさか……」

「ええ、そのまさか、です……」

 ふうっと息をつくと、地の守護聖は、再び話し始めた。




 リュミエールは、望郷の思いを抑える為の習慣を、ルヴァに説明していた。

『……という訳で私は、その夜は一人で、竪琴を弾いて過ごす事にしておりました。ところが、次の祭日がちょうど土の曜日に重なってしまったので、私は習慣を守るかクラヴィス様とお逢いするか、どちらかを選ばなければならなくなったのです……』

 青銀の睫毛が、震えながら伏せられていく。

『心を偽ってお逢いしてもご迷惑と思い、私は習慣を選びました。そして、クラヴィス様に事情をお話したのですが……あの方は大変お怒りになり、それ以上に、傷ついてしまわれました』

『傷ついた……?』

 不審そうに繰り返すルヴァに、リュミエールは俯いたまま頷いた。

『はい。クラヴィス様は、私の心に、ご自分以外の大きな存在がある事に、傷ついておられるようなのです……』

途方に暮れたような声は次第に小さくなり、最後の方は、聞き取り難いほどになっていた。

 地の守護聖は、困り果てたように溜息をつく。

 いくら知を司ると言われ、博識と呼ばれていようと、このような感情のもつれに関しては、とんと疎いのだ。

 『まあ……そういう事も、あるんでしょうね』

自分でも気の利かない返事だとは思うが、他にどう言えばいいのか、かいもく見当も付かない。

 だが、相手の言葉など耳に入っていない様子で、リュミエールは顔を上げ、言った。

『私はこれ以上、あの方を傷つける事などできません。けれど……故郷への強い思いを消す事もまた、自分ではできないのです。だから……』

 ルヴァが、はっとした様に目を見開く。

『リュミエール、ブランシアのエキスは、まさかあなたが……』

『はい、記憶を消そうと思います。故郷の分だけなどという、都合のいい事はできないでしょうから、全てを真っ白に消してしまおうと……』

 『いけません!』

滅多に出さない鋭い声で、地の守護聖は、相手を制した。

『あの薬で消された記憶は、二度と戻らないんですよ。それが、どんなに恐ろしい事か、分かっているんですか?……そもそもあの薬は、かつてある星域で刑罰のために用いられていたもので、その刑が廃止された後は、製造さえ禁じられているほどに、危険きわまりない……』

 『どれほど危険だろうと、私にはそれが必要なのです。どうか、お譲り下さい』

水の守護聖の声と表情は、どこまでも穏やかだった。

 ただ、その瞳の奧に、尋常ならざる表情の宿っているのが、ルヴァにも鮮明に見えている。

『たとえ全てを失っても、私はきっとクラヴィス様をお慕いするようになりましょう。そうして今度こそ、他には何も持たない、あの方の望み通りの存在になれるのです』

『リュミエール……』

『サクリアにも、記憶は関係ないと聞きました。ですから薬を……お願いです、ルヴァ様』

 相手を見返す事もできずに − 熱に浮かされたような眼差しは、受けている方が辛くなってくるのだ − あらぬ方角を向いたまま、地の守護聖は溜息をつく。

(まったく、こういう問題を解決するには、聖地一の不適格者ですよ、私は)

『約束……して下さったではありませんか』

 必死に訴えてくる言葉 − 普段のリュミエールなら絶対に言わないであろう恨み言 − を聞きながら、ルヴァは静かに立ち上がった。

『分かりました、薬を取ってきます』

『……ルヴァ様』

地の守護聖は、気弱に微笑みながら、頷いた。

 自分がこれ以上、リュミエールを説得する言葉を持たない事を、彼は悟ったのだ。




 “カメリオラ・ブランシア”

そう刻印された瓶を持ってくると、ルヴァはリュミエールの目の前で、厳重に施された封を開けた。

 製造され瓶詰めされてから、一度も外気に触れた事のない液体が、カップに注がれる。

『分量は……ああ、共通語で書かれていますね、ちょうどこれくらいでしょう』

『ええ、ありがとうございます』

青銀の髪の青年は、嬉しそうにカップを手に取る。

 『リュミエール、最後にもう一度だけ聞きます……本当に、いいんですね?』

『はい』

そう答える幸福そうな顔を、ルヴァはただ、呆れたように見つめていた。

 『それでは、失礼いたします』

会釈すると、リュミエールは躊躇いもなく、カップの中身を干したのだった……



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