白 椿・3


 「……少しは気後れするかと思ったんですけどね、リュミエールには全然そんな気配もなく、あっさりと飲んでしまいました。それはもう、嬉しそうに……」

 「どこだ」

低い声が、響いた。

「は?」

「リュミエールは、どこにいる!」

ルヴァが思わず身を竦めるほどの激しい眼差しで、クラヴィスが問うた。

 「え、ああ、隣の部屋ですよ。あの薬を服用すると、軽い昏睡状態に陥ってしまうので、予めベッドを運ばせて……おや、クラヴィス?」

 答を聞き終わる前に、闇の守護聖は隣室に向かっていた。




 カーテンが引かれ、薄暗く保たれた、広い部屋。

 扉を開けたクラヴィスは、中央に置かれたベッドに、愛する者が横たわっているのを見た。

「……リュミエール」

掠れた声と共に足が止まり、それから一歩一歩、引き寄せられるように進み出ていく。

 次第に近づいてくる、青銀の髪、優しい面立ち。

「リュミエール……リュミエール、私だ」

呼び掛ける声が聞こえるのか聞こえないのか、水の守護聖は、指一つ動く気配も見せない。

「………………リュミ……エール……」

ついにベッドの脇に来たクラヴィスは、床に膝をつくと、恋人の寝顔に自らの顔を寄せた。

 微かに上下する胸の動きだけが、命と時の流れを伝えてくる、静かな眠り。目覚めればいつものように、微笑みと共に呼び掛けてくるようにしか思われない、繊細な面。

 だが、この中にはもう、何も残ってはいないのだ。

「……何という事を……」

 青銀の髪で覆われた繊細な、そして無表情な寝顔を見つめながら、クラヴィスは信じられないように頭を振る。

 この眼が、喜びに輝いた時を、知っている。

 この唇が震えて噛みしめられた時も、この髪が自分の指に梳かれた時も、この首が、この肩が……

「それを、全て……捨ててしまったというのか……」

 そのような事を、望んでいた訳ではなかった。

 ただ、恋人の中に、自分の入り込めない − しかも、消して小さくはない − 領域がある事が、堪らなく嫌だっただけなのだ。

 だからといって……

 あれほどに恋しがっていた故郷や家族の記憶。それだけではなく、聖地に来てからの経験も、自分と知り合い愛し合うようになった記憶まで、自ら望んで失ってしまうとは。

 (それも皆……私のために、か……!)

闇の守護聖は、低い呻きを洩らした。

 深い青色の瞳を隠す瞼は、開こうとする気配すら見せない。

 その緩やかで小さな曲面の、血の気もなく、かといって蒼くもない、紙のような白さが、クラヴィスの目に飛び込んでくる。




 白。

 無の色。

 忘却の、喪失の色。

 心を押しつぶすように、また、突き放すように責め立てるその色から、視線を逸らす事もできず、黒髪の男はただ、苦しみに心を任せていた。








 どれほどの時間が経っただろう。

 「……ん」

微かな声と共に震え出した瞼に、淡い血色が差し始めた。

 (リュミエール……!)

掛ける言葉も見出せず、クラヴィスはただ、胸の中で叫ぶ。

 青銀の睫毛がゆっくりと開かれ、深い海の色をした瞳が、次第に焦点を得ていく。

「私は……ここは……」

周囲を見回していた視線が、間もなく闇の守護聖の上で止まる。

「クラヴィス様」

 呼び掛けられた男は、両眼を大きく見開いた。

「何……だと」

「クラヴィス様……ここは、どこでしょうか……?」

 まだぼんやりした様子で半身を起こすと、青年はいきなり強く抱きしめられた。

「……どう……なさったのです、クラヴィス様?」

 おずおずと抱き返しながら、リュミエールは小さな声で尋ねる。

「分かるのか、私が……記憶を失っては、いないのだな!」

「記憶……?」

 青銀の髪の青年は、その言葉をゆっくりと繰り返すと、突然、身を強ばらせた。

「ああ、何という事でしょう!」

「リュミエール……」

 恋人の腕を必死で振りほどき、震える瞳で相手を見上げながら、リュミエールはひたすら謝った。

「申し訳有りません!お心に沿おうと、薬を飲みましたのに……」

 黒髪の男はそれに答えず、ただ両手でそっと相手の肩を覆った。

「リュミエール……愚かな考えを起こすな」

温かな感触と共に、安らぎが伝わってくる。

「……私の心が求めるのは、今のお前なのだ……故郷への思いを内に持つ、そのままの、お前だ」

低い声がゆっくりと、麻痺していた心を解し始める。

 しかしリュミエールは、小さく頭を振った。昨夜見た淋しげな眼差しは、とても忘れられるものではなかった。

 一方クラヴィスの面には、愕然とした表情が現れていた。思いを口にした事によって、昨夜生じた激情の奧にあったものが、垣間見えたのだ。

 (そう……だったのか……)

 愛する者の中にある、自分には決して入り込めない領域。リュミエールがそこに行ってしまうのが、そうして、手の届かない所で苦しむのが、耐え難く辛かったのは……

「……それほどに大きいお前の悲しみが、私には理解できなかったから、だ」

「え?」

 黒髪の男は静かに手を下ろすと、淋しげな、しかし、何かを悟ったように穏やかな表情で続けた。

「故郷を思うお前を、癒してもやれず、共感すらできず、ただ見ているよりないという、その事に耐えられなかったのだ……この私がな」

 驚いたように相手の顔を見つめながら、リュミエールはこの闇の守護聖が、家族や故郷の記憶をほとんど持たない事を、今更のように思い出していた。

 自分が望郷の思いを言葉や態度に出す度に、この人は孤独を募らせ、その裏返しである独占欲に憑かれていったのかもしれない。

 それが昨夜、堰を失った奔流となって、自分たちを押し流してしまった……

「だが、お前がそれを……私の無力さを受け入れてくれるなら……」

呆然とする水の守護聖の耳に、低いが決意の籠もった声が聞こえてくる。

「……私もまた、この痛みを受け入れるようにしよう。いずれは慣れて感じなくなるように」

 リュミエールは、思わず声を上げた。

「どうして、無力なはずがありましょうか!……いつも私が、クラヴィス様にどれほど癒していただいているか、何もなさらずとも、ただいらっしゃるだけで、どれほどの喜びを頂いている事か……」

珍しく大声を出したからだろうか、色白の目元がほんのり紅らんでいる。

 その言葉、その色が愛おしくて、クラヴィスは恋人の頬に手を滑らせた。

「先刻は……愚かだなどと言って、すまなかった」

「クラヴィス様……」

 薔薇色に染まった瞼に口づけを落とし、黒髪の男は続けた。

「愚かなのは私だ。愚かなほど、お前を……愛している」

 長い指が、ゆっくりと顎の方に下りてくる。

 『私も』というリュミエールの返事は、小さな喘ぎとなって、恋人の唇の中に消えていった。



白椿・4ヘ


ナイトライト・サロンへ


白椿・2へ