白 椿・4
二人が客間に戻ってくると、既に主の姿はなかった。
「ルヴァ様は、どちらに行かれたのでしょう。館の方を呼んで参りましょうか」
「……そうだな」
リュミエールは、廊下に通じる扉に向かおうとしたが、目眩を起こしてその場に立ち止まってしまった。
クラヴィスがその背に腕を回し、ソファまで連れていく。
「無理をするな。私が呼びにいく」
「申し訳ありません」
答えたリュミエールは、ふと、テーブルの上に紙片が置かれているのに気付いた。
「クラヴィス様、これは……私たちの名前が書いてあります!」
『親愛なるクラヴィスとリュミエールへ
最初に、あなた方を騙した事を謝ります。
説明しますと、記憶を消す薬の原料は、正確にはカメリオラ・ブランシア・レティアといいまして、ブランシアの中でも特別な、秋咲きの種なんです。
でも、私がリュミエールに渡したのは、春咲きの、普通のブランシアだったんです。こちらの実のエキスから作られた薬を飲んでも、数時間の昏睡状態に陥るだけで、記憶には何の影響もありません。
リュミエール、せっかく頼ってくれたのに申し訳ないのですが、正直に言って、こういう複雑な感情の問題は、私には難しすぎます。
でも、人間として、してはならない事だけは、弁えているつもりです。
だから私は、植物の名前を最後まで言わなかったのを幸いに、効果のない薬をあなたに飲ませたんですよ(薬を渡すのを拒んでしまったら、あなたは何か他の手段で、記憶を消そうとしたかもしれませんでしたからね)。
それから、クラヴィス。
リュミエールが記憶を失った訳ではない事を、あなたにお話しすべきかどうか、私は迷っていました。
でもあなたが、話の途中で隣の部屋に行ってしまった時、私には、そのままにしておいた方がいいような気がしたんです。
決してあなたを、いたずらに悲しませたかった訳ではありません。上手く言えないんですが、あなたの見せた動揺が、もしかしたら、リュミエールの話してくれたあなたの傷を、埋めてくれるかもしれないと感じたんですよ。
けれど、二人を騙した事に変わりはありません。あなた方の信頼と友情を失いかねない事を、私はしたのかもしれません。
そうなったら大変悲しいと思いますが、それでも……それを考えても私には、こうするしかなかったんです。
リュミエールは、起きてしばらく目眩が残るかも知れませんから、ここで宜しかったら、ゆっくり休んでいって下さいね。
お二人の幸福を願っている ルヴァより
追伸: 今日は天気もいいので、釣りに行こうと思います。』
青銀の髪の青年は、自らを恥じるように俯くと、小声で言った。
「ルヴァ様に、お詫びとお礼を申し上げなければなりません」
「それは……私も同じだな」
知的で穏やかな地の守護聖に心から感謝しながら、クラヴィスは答えた。
その視界の隅に、ふと白い物が映る。
「あれが……ルヴァの言っていた白椿か」
窓の外では、ブランシア・レティアの花と似ているというそれが、全ての色を捨てたかのように純白に咲き誇っていた。
そして地面には、緩やかで小さな曲面をなす花弁が数片、未だ汚れない白さを保っている。
クラヴィスの心に、締め付けられるような痛みが走った。
「どうなさいました」
優しい声に振り返ると、心配そうな表情のリュミエールがこちらを見つめていた。
「いや……」
安心させるようにその手を取り、微笑み掛けると、幸福そうな笑顔が返ってくる。
いつかルヴァに、この椿を分けてくれるよう、頼んでみよう。
もし分けて貰えたら、自分の庭の、一番よく見える所に植えさせよう。
そうしてこの花を見るたびに、目覚めぬ恋人の瞼の白さが、この上もなく恐ろしく心に迫っていた時間を思い出し、己への戒めとしよう……
自らの想いの強さに耐えきれず、一番大切な者を傷つけてしまう、そんな愚かさに、再び陥らぬために。
手の温もりと笑顔が心に染みてくるのを感じながら、クラヴィスはそう考えていた。
FIN
01.04