大切な日


 「11月11日……」

水色の髪の少年が、しっかりと覚え込むように繰り返す。

「ありがとうございます、ディア」

「どういたしまして」

撫子色の髪の少女は、温かな微笑とともに答えた。




 就任して、まだ聖地時間の一年にも満たぬ水の守護聖は、たまたま宮殿の談話室で顔を合わせた女王補佐官に、自分たちの誕生日の定められ方について教わっていた。

 出身惑星の公転周期を、聖地の一年に置き換えて計算されるので、リュミエールの誕生日は5月3日、ディアは9月9日となる。

 そして……

「11月11日にはきっと、盛大なお祝いがあるのでしょうね。何と言っても、闇の守護聖様のお誕生日なのですから」

 その日に何を贈ったらいいだろうかと考え始めながら、少年は夢見るように呟いた。

 対照的に、補佐官の面からは、笑みが退いていく。

「リュミエール……お祝いは、恐らく行われないでしょう」

「行われない?」

 深い海の色をした瞳が、不審そうにやや見開かれる。

「どういう事でしょうか」

 少女は、小さく溜息をついて話し始めた。

「私が補佐官になる前から、クラヴィスの誕生祝いは行われていないのです。周囲と何か行き違いがあったとも、本人がそれを望まなかったからだとも言われていますが、はっきりした事は分かりません」

「そんな……」

 リュミエールの瞳に、憂いの色が広がっていく。

 それを気の毒そうに見つめながら、ディアは静かに言葉を継いだ。

「昔、一度だけ……ルヴァが、やはり貴方のように、この話題を出した事があったそうです。でも、クラヴィスの方に全くその気がなかったので、結局そのまま断ち消えになってしまったと聞いていますわ」

「ルヴァ様が……」

 水色の髪の少年は、諦めたように肩を落とした。

 滅多に他人に向けて言葉を発しようともしない闇の守護聖だが、ルヴァとだけは、短い会話を交わしているのを見かける事がある。恐らく彼は、クラヴィスが唯一心を許している存在なのだろう。

 そのルヴァが乗り出しても、何も変わらなかったのだ……

 暗然と思いに沈みそうになったリュミエールは、ふと補佐官の視線を感じ取ると、安心させるように、強いて微笑を作った。

「……そうですか、事情は分かりました。ありがとう、ディア」




 リュミエールは、だいぶ馴染んできた大きな執務机に着くと、長い溜息を洩らした。

 ディアと別れた後、ルヴァに話を聞いてみたが、結局新しい事は何も得られなかったのだ。

 暗色の霧に覆われたような、闇の守護聖の虚無の眼差しを思い出すにつけ、二人から聞いた話が、真に迫って感じられてくる。

(それでも……たとえ一人でも、お祝いして差し上げたいと思うのは、私のわがままでしょうか)

 初めて会った時、胸打たれるほど優しい眼差しを投げかけて下さった方。

 何かの理由で心を凍てつかせ、永い渇きの夜を彷徨っておられる方。

 そして、心弱いこの自分に、他のどこでも得られない安らぎと真実を与えて下さる方……

 クラヴィスの誕生日は、自分のそれよりも大切な記念日のように、リュミエールには感じられるのだった。




 やがて聖地に、11月11日が訪れた。

 その日は平日だったので、リュミエールは午前の執務を終えると、執務室で軽い昼食を摂る事にした。

 しかし、その日の食事には、まるで味が感じられなかった。

 気を沈めるためにハーブティを淹れてみても、カップに口を付けるのを忘れ、竪琴の手入れを始めてしまう有様である。

 そうやって、落ち着かない様子で時間をつぶすうちに、やっと昼の演奏の時刻がやってきた。




 厚い絨毯の敷かれた廊下を、少年は半ば無意識で歩き続けた。

 竪琴を持つ手が細かく震え、一足進むごとに鼓動が激しくなっていくのが感じられる。

(落ち着かなければ……この日のために、ずっと考えてきたのだから。ずっと考えて、これが最善だと思ったのだから)

 そして辿り着いた闇の執務室を前にして、リュミエールはまだ躊躇っていた。

 いつもなら、一つ息をついてからノックする所を、今日は4、5回も深呼吸をしてから、思い切って叩いてみる。

「……」

 慣れた者でないと聞き取れないような声で、“開いている”と返事がある。

 最後にもう一度小さく呼吸すると、リュミエールは、重い扉を開けた。




 部屋に入ってきた水の守護聖が、どことなく常と違った様子なのに、クラヴィスはすぐ気が付いた。

 服装や表情が変わっているという訳ではない。第一、クラヴィスはリュミエールに視線を向けてもいないのだ。だが、来訪者の纏った雰囲気は独特の波動となり、それまでこの部屋を支配していた闇と静寂を通して、彼の身体に伝わってくる。

 「昼食は……お済みでしょうか。よろしかったら、演奏を始めさせて頂きます」

 いつもと変わらぬ言葉の、その声音の奧にも、抑えられた興奮が感じられる。

 違和感を覚えながら、あえてその内容や理由を問いただす事もなく、クラヴィスは、普段と同じように小さく頷いた。




 流れ出した旋律は、それまで聴いた事のないものだった。

 素朴な美しさに満ちたそれは、リュミエールが好んで奏でる故郷の古謡の一つなのだろうが、どこか華やいだ独特の趣を備えているように、クラヴィスには感じられた。

 更に、演奏には奏者の昂揚がそのまま現れていた。音色が輝いているばかりでなく、弦を移りゆく指の動きにまで、弾むような調子がある。

 よほど嬉しい事でも、あるのだろうか。




 やがて曲が終わると、水色の髪の守護聖は、思い切ったように口を開いた。

「これは……私の故郷に伝わる、祝い歌の一つです」

 繊細な面には喜びが溢れ、優しい声が、少し上擦っている。

「……祝い歌?」

 クラヴィスは、抑揚のない声で繰り返した。その顔には、何の表情も浮かばない。

「今日は、特別な……大切な日ですから……」

リュミエールの声が、段々小さくなっていく。

 大切な日。

 聖地には、幾つもの祭日や記念日があるが、クラヴィスがそれらを気に留めた事はなかった。公の式典が執り行われる日さえ、前日か当日に改めて注意されなければ、忘れているほどである。

 (……式典こそ無かったが、今日は何かの記念日だったのか)

 だとしても、なぜ今ここで、特別な曲など奏でるのだろう。聴き手と言えばただ一人、この自分しかいないものを……




 竪琴を構えたまま、リュミエールは途方に暮れていた。

 無反応も無言も、闇の守護聖にとって珍しい事ではないのだが、それが、勇気を振り絞って口にした言葉の後となると、話は別になる。

 喜んでほしいとか、驚いてほしいと思っていたわけではない。もちろん気を悪くされたくはないのだが、せめて何らか − 眉をほんの少し動かすとか − の反応は、得られると思っていた。

 それが、全くの無反応である。

 今日のために練習してきた祝い歌はまだ何曲もあるのだが、それを弾き始めて良いのかどうか決めあぐね、少年はただ、相手の白皙の面を見つめていた。

 そして、ゆうに一曲を弾き終えるだけの時間が流れた後、不意にリュミエールの心を、ある考えが過ぎった。

(まさか……ご自分の誕生日を、覚えていらっしゃらない?)

 「クラヴィス様」

恐れるより先に、言葉が出ていた。

「今日は、11月11日……あなた様の、お誕生日でございます!」




 誕生日。

(言われてみれば……手遊びに占おうとして、日付を使った覚えがある……それに、以前ルヴァが何か言ってきたような気もする……)

 それに何かの意味があるとは思えず、今まで気に掛けた事もなかった日付。

(しかしこの者が、あれほど嬉しそうに、祝いの曲を奏でるとは……あながち、無価値というわけではないのかもしれぬ)

「……誕生日……」

 クラヴィスは、恐らくは生まれて初めて、それの持つ意味を考え始めた。

(遥か昔、私がこの世に生を受けたのと同じ日付を持つ日……)

 では、その日より前には、自分は存在していなかったのだ。




 暗い部屋の中、闇色を映していた瞳が、瞬間、鋭い光を帯びる。




 自分の存在していない時間。存在していない宇宙。

 あまりに永い間、それらはクラヴィスにとって、考えの及ばないものだった。

 気が付けば既に、守護聖としての長い時を生きていた。そして未来には、恐らくは更に永い守護聖としての時間が、不動にして定められたものとして、考えも及ばぬ遥かな先まで敷かれていた。

 逃れられぬ運命と日々の虚しさが時の感覚を麻痺させ、いつか自らを、“ただそこに在る者”としてしか捉えられなくなっていたのだ。

 いつからかそこに在り、いつまでも在り続けなければならぬ者……

 限りある全ての喜ばしき生から、切り離された者……

 永遠という呪いを掛けられ、滅びる事を許されぬために、その価値を失った者……。




 (……だが、そうではなかったのだ……)

「誕生日……か」

 燭台の灯りに照らされた黒髪が、その艶を静かに揺らしている。

 闇の守護聖が、顔を上げたのだ。

「生を受けた日がある以上、それが奪われる日も、いずれ来ような……」

 呟くように漏れた言葉の不穏さに、リュミエールは息を飲んだ。

 しかし、クラヴィスの面には、それまで無かった輝きが、ほんの一条だが現れているように見える。

(なぜ……まるで、自分が死すべき者だという事が、救いであるかの様に……)

 愕然とする少年の耳に、昼休みの終わりを告げる鐘が聞こえてくる。

「あ……」

 溜息混じりの声に、余程はっきり失望が現れていたのだろうか、白皙の面が怪訝そうに曇ったのを、リュミエールは見て取った。

「……すみません、何でもありませんから……では、失礼いたします」

 暗い表情を隠すように急いで退出していく少年を、闇の守護聖は無言で見送った。


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