大切な日・2
自室に戻ると、リュミエールは午後の執務を始めようとした。
だが、心はすぐに、先刻の出来事に戻っていってしまう。
(望んでいたとおり、クラヴィス様のお気を損ねる事無く、お誕生日をお祝いする事はできた……けれど)
まるで、死を待ち望んでいるかのような、あの言葉。
それが、皮肉でも自棄でもなく、むしろ充実した表情で呟かれたのが、少年にはどうしても理解できなかった。
誕生日というのは、父母や育んでくれた人、そして、生まれてから今までの幸福に感謝する日だと思う。もちろん、人によって捉え方は異なるのだろうが……少なくとも、死を思う日ではないはずだ。
物思いに耽りながら、少年は無意識に机の輪郭を指で辿っていく。
そして、指がある所に来た時、彼はふとそこに視線を落とした。
(これは……)
分厚い天板の右の方、引き出しの真上にあたる箇所の裏が、磨り減って大きく窪んでいる。
その執務机は、前任の水の守護聖から引き継いだものだった。
リュミエールは以前から、新品より人の使った物の方が、どことなく温かい感じがして好きだったので、新しい机の手配をあえて辞退したのだ。
永年の執務を物語る曲線をそっと撫でながら、少年は、懐かしく思い出していた。
(あの方……前の水の守護聖様は、ご自身も古い物を好んでいらっしゃったので、私の辞退をすぐに理解して下ったのでしたね。しかし、これほどの窪みができていたとは……一体どれ程の間、この机をお使いになっていたのでしょうか……)
時流の操作を受けているとは言え、幾つもの星系や銀河の興亡を見守り続けなければならない守護聖たちは、まだ任期浅い自分には考えも及ばないほどの時間を、ここで過ごしているに違いない。
(……だとしたら!)
リュミエールは、クラヴィスの空虚な表情を思い出していた。
ジュリアスと並んで、異例の在任期間を経て来ている、闇の守護聖。
幼い頃に親から引き離され、職務に意義を感じる事もできず、そしていつか、何かの力によって安らぎを奪われてしまった……そんな状態で、永遠とも思われる長い時間を、ここで過ごしてきたのだとしたら。
(きっと……自らの生に倦み疲れ、その価値さえ分からなくなってしまうでしょう)
水色の髪の少年は、闇の執務室の方角を、悲しげに見やった。
考えてみれば……人は皆、やがて訪れる死をどこかで意識して初めて、自らに、そして生に、愛着や執着を覚え始めるのではないだろうか。
しかし、意志と無関係に引き延ばされたクラヴィスの生は、意義や喜びという支えも見出せないまま、恐らくは少しずつ、少しずつ撓み続け、沈んでいったのだ……
虚無の闇の中に。
「“生の奪われる日”……」
クラヴィスの言葉を、その瞳に生じた微かな輝きを、リュミエールは思い出していた。
(そう……だったのですか……)
自分が、他の人間と同じく、いずれ死ぬのだという感覚。
長すぎる聖地での年月の間に失われたそれを、クラヴィスは誕生日を意識する事によって、少しだけ取り戻せたのかも知れない。
あの面に現れていたのは、きっと、自分の存在が、宇宙の全ての生から孤立している訳ではないと、自分も生に執着を持ってもいいのだと、そう気づいた輝きだったのだろう。
最前の出来事を、ようやく自分なりに理解できて、少年は安堵の息を漏らした。
だが、その面から悲しみの色は去っていなかった。
(何という……)
リュミエールは、改めてクラヴィスの内面に思いを馳せていた。
(……深い闇なのでしょう)
生の根幹が明るみに出されても、まだそれがほんの一条の光に過ぎないとは。
自分の演奏などで、計り知れぬその深みを、ほんの少しでも、一時でも埋められるかもしれないと思ったのは、所詮、身の程知らずな事だったのだろうか……
悄然と面を伏せてしまった少年は、しかしすぐに、弱気を抑えるように頭を振った。
(いいえ、例え、この身には遥かに余る望みだとしても……)
大切な方だから、お助けしないではいられない。
自分にその力があるかどうかなど、関係なく。
クラヴィスは、じっと扉を見つめていた。
もう、どれほど前になるのだろう。
昼休みにここから入ってきた少年は、見るからに嬉しそうな様子で、祝いの歌を奏でていた。
それによって誕生日というものを思い出した自分は、初めて己の死を、そして生を、少しだけ意識できるようになったようだ。
しかしその途端、少年は失望した表情になり、逃げるように立ち去ってしまったのだ。
理由は分からないが、気分を害したに違いない。
(……そう言えば)
リュミエールはいつも必ず、“また明日参ります”とか“明後日また、お聴きいただけますか”などと言い残していくのに、今日はただ退出の挨拶しかしなかった。
(もう、ここへは来ぬ……か)
暗色の瞳が扉を離れ、闇の虚空に吸い込まれていく。
元に戻るだけだ。
水色の髪の少年が、ここに来るようになる前に。慣れ親しんだ静寂が、ほぼ完全であった頃に。
「それでいい。あの者に闇は似合わぬし、私も気を乱されずに済む……」
呟く自分の声の、どこか心許なげな響きに、クラヴィスは気がつかなかった。
午後の執務時間が終わるとすぐ、闇の守護聖は立ち上がった。
人の多いこの時間に彼が退出する事は殆どないのだが、なぜか今日は、執務室の闇が、妙に居心地悪く感じられるのだ。
水晶球を布に取った時、扉を叩く音がした。
「………………開いている」
普段よりも間の空いてしまった言葉に応えて扉が開くと、水色の髪の少年が姿を現した。
廊下の光を受けて、微かに紫色の蘇った瞳が、真っ直ぐに来訪者を捉える。
「……お帰りになる所だったのですか」
部屋の主の様子を見て、リュミエールは少し驚いたように言う。
「申し訳有りません。ただ、一言お詫びさせて頂きたくて、参りました……」
「……詫び?」
訝しげに繰り返す闇の守護聖に、少年はもう一度謝罪の言葉を告げた。
「お昼休みは、申し訳有りませんでした。自分の勘違いに気を取られ、大切な事を伺うのを忘れておりました……あの、明日また、演奏を聴いて頂けるでしょうか?」
クラヴィスは、穴の開くほどリュミエールを見つめている。
それをどう取ったか、少年は優しい眉を寄せて、更に謝った。
「いえ……すみません。大切だと申しましたのは、私にとってという意味です。クラヴィス様にとっては、取るに足らない事でしょう……けれど……」
長い静寂の中、クラヴィスの面には次第に、仄かな平穏の色が広がっていった。
来訪者から視線を外し、再び席に身を沈めると、ゆっくりと頷いて見せる。
「……ありがとうございます!」
リュミエールは微笑んで答えた。
それは、今日見せた様々な表情の中で、一番幸福そうな顔だった。
夕景美しい聖地を、瀟洒な馬車が軽やかに走っていく。
車窓から帰途の眺めを楽しんでいた水の守護聖は、やがて視界から消えていく宮殿を見つめながら、この日の出来事を振り返っていた。
(今日は、一曲しか奏でられなかったけれど……次のお誕生日には、もっとたくさんの祝い歌を奏でて差し上げられますように。その日に、あの方も私も、ここにいられますように……)
漆黒の間を統べる闇の守護聖は、少年を見送った時のまま、机に着いていた。
先ほどまで居心地の悪かったこの場所が、今は以前と変わりなく、心地よくなっている。
(……あの者が来たからか?また来ると言ったからか?)
この部屋の闇は、自分ひとりを包むよりも、水の守護聖を共に置く事を選ぶのだろうか。何回も通われるうちに、あの竪琴の音色に慣れてしまったのだろうか。
そう言えば、今日の一連の出来事も、リュミエールがこの自分のために、祝い歌を演奏した事から始まったのだった。
(……私のために?)
新たな疑問が、クラヴィスの頭に浮かんできた。
なぜリュミエールは、他人であるこの自分の誕生日を、あれほど喜んでいたのだろう。
あの者自身の誕生日でもないというのに。
暫し思いを巡らせていたクラヴィスは、やがて嘲笑にも似た諦めの息を漏らした。
幾ら考えようとしても、及ばぬ事がある。
それが自分の知るべき事ならば、いずれ然るべき時に、運命が知らせてくれるだろう。望むと望まざるとに関わらず。
夕陽の中を往く水の守護聖の馬車は、まもなくその私邸に着こうとしていた。
執務机からカウチに移った闇の守護聖は、白い指を膝に組むと、昼に聴いた旋律を思い出しながら、静かにその切れの長い瞼を下ろしていった。
こうして11月11日は、聖地の平穏な一日として、ゆっくり暮れていくのだった。
FIN
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