特別な日・2


 火の曜日、リュミエールは執務で一日王立研究院に詰めていたが、何とか時間内にそれを終え、カティスの家に駆けつける事ができた。

 既に集まっていた同僚たちは、少年が到着するなり、笑顔と祝いの言葉を添えて、プレゼントを渡し始める。

 ルヴァからは竪琴に関する立派な専門書、カティスからは聖地の気候に合うよう自ら改良した数種類のハーブの鉢植え、他の者たちからも心のこもった品々が贈られ、リュミエールは嬉しさと感謝で、思わず涙ぐみそうになった。

 やがて、和やかな夕食──カティスの発声による乾杯で始まった──も終わると、一同は食堂から客間に移り、食後の酒やコーヒーを楽しみ出した。

 そこでリュミエールはルヴァに請われ、せめてもの返礼の気持ちを込めて、携えてきた竪琴を奏で始めた。

 守護聖たちが耳を傾ける中、済んだ音色が、春の宵を縫って流れていく。

 弦に指を走らせながら、コーヒーの香りに鼻腔をくすぐられた少年は、ふと、昼休みの演奏を思い出した。

(クラヴィス様……)

 出張が決まる前、カティスは、この夕食会に彼を誘うと言っていた。

 人の集まる所を嫌う闇の守護聖が、そう簡単に来るとは思えなかったが、それでもリュミエールには、少しだけ期待する気持ちもあった。

 たまたま出会うのを除けば、執務室以外で顔を合わせた事もないクラヴィスと、食事の席を共にできる……自分の誕生祝いでなくても、それは、想像するだけで胸の弾むような事だった。

(けれど、ここに来るどころか、今は聖地にさえいらっしゃらないのですね)

 深い海の色をした瞳に陰が差すと、調べも仄かな曇りを帯びる。

 自分が聖地に来てから、クラヴィスが職務で聖地を離れる事は何度かあったが、今回は特に、その不在が重く感じられるのだ……

 だが調べは、間もなく元の優美な響きを取り戻した。

(いいえ、今ここに、これだけの方々が来て下さったのですから、私は、勿体ないほどに幸せです!)

 何とか気を取り直した少年は、ことさら明るい調子の曲を選び、奏で続けるのだった。




 ささやかだが温かな雰囲気の夕食会もお開きになり、集まった守護聖たちは、それぞれ帰途についた。

 カティスや客たち全員に、心からの礼を述べると、リュミエールも自分の馬車に乗り込んだ。

 平日なので、さすがに日付の変わるほど遅くはならなかったが、それでも普段なら床に入っている時間である。

 すでに眠りについた森が、墨色の夜空の下で、更に黒々とした輪郭を見せている。

 やがて馬車は、ゆるい勾配に差し掛かった。

(あ……)

 気付けばそこは、闇の館に続く道との分岐点である。

 見た事も訪れた事もないクラヴィスの私邸だが、その存在に思いを馳せるだけで、リュミエールは落ち着かない気分になった。

 (仕方ないではありませんか、あの方はいらっしゃらないのだから……職務で出かけられたのだから!)

 そう自分に言い聞かせても、どうしようもない寂しさが心を襲っている。それまで抑えていた気持ちが、一度に込み上げてくる。

(何と心弱いのでしょう、私は……)

情けなさに俯いたまま、少年は御者に告げていた。

「宮殿へ……向かって下さい」




 人気のない深夜の宮殿だが、夜警の者も、守護聖を見とがめたりはしない。何か用事があってやって来たのだろうと、敬礼するだけである。

 その中を、リュミエールは闇の執務室までやってきた。

 何をしようというのでもない、ただ、クラヴィスを感じさせるものの近くに行きたかったのだ。

 主のいない部屋の扉に手を当て、そっと息をつく。

(クラヴィス様……)

 その時、廊下に面した詰所の戸が、不意に開いた。

「リュミエール様?」

 慌てて手を離し、振り返った少年の前に、見覚えのある従僕が姿を現した。

「あなたは……この執務室付きの」

「はい、お待ち申し上げておりました」

「私を?こんな時間に、ですか?」

リュミエールは、きょとんとした表情で聞き返す。

 従僕はにっこり笑うと、携えていた鍵を扉に差した。

「クラヴィス様が、出かれられる直前にお命じになったのです……今回の出張の間、もしどなたかが所用でこの部屋を訪れても、決して扉を開いてはならない。ただ火の曜日だけ、リュミエール様がここを通りかかったら、何時であろうと入れて差し上げるように、と」

 開かれた扉から、微かに白檀の香りが流れ出している。

「それは……ありがとうございます。こんな時間に、すみませんでした」

 訳が分からないままに礼を言うと、リュミエールは通い慣れた部屋に入って行った。




 背後で扉が閉められると、燭台の代わりに、今は常夜灯だけが灯されている闇が、少年を包んだ。

 だが、その部屋は、空(から)ではなかった。

「あっ!?」

何かがそこを、満たしている。誰かの存在を、感じさせるものが。

「クラヴィス……様?」

闇の中を見回しながら、リュミエールは呼び掛けた。

「いらっしゃるのですか、クラヴィス様!」

 返事はない。

 少年は、驚きに乱れた息を整えながら、眼を凝らして室内を見回した。

 誰もいない。誰もいないが、感じられる。

(まさか……闇のサクリアが、これほどに?)




 その人がいるかの如く、いや、それ以上に強く濃い闇のサクリアが、執務室中を満たしている。

 自然に身から流れ出すものとは、全く濃度が違う。

(わざわざ……この部屋に、サクリアを放出していかれた?)

 宇宙のための強大な、そして貴重な力であるサクリアは、通常、宮殿奧にある専用の部屋でしか放出されない。

 だが、この部屋の中に感じられるサクリアは、故意に放出していったとしか思われない強さなのだ。

(これほどのサクリアを、一体、何のために……)

 従僕の話では、クラヴィスは誰もこの部屋に入れないよう命じたという。

 ただ、この自分を除いて。

 しかも、今日に限って。

(まさか……!)

 深い海の色をした大きな瞳が、見開かれる。




 水晶球が無いため──持ち主が、出張に同伴させたのだろう──いつもより広く見える執務机の燭台に、少年は灯りを点けてみた。

 仄かな光に浮かび上がるスケジュール表の中、今日の日付の備考欄には、走り書きの文字が残っていた。

 “リュミエール”と。




 「クラヴィス様、ご存じだったのですか……私の……」

リュミエールは、掠れた声で呟くと、崩れるように床に跪いた。

 主のいない机を見上げたまま、その両眼から涙が溢れ出す。

「ありがとう……ございます……」

 少年は全身で、クラヴィスからの誕生日プレゼントを受けとめていた。

 不在の間も安らぎを得られるよう、闇の守護聖はサクリアをここで放出し、残していったのだ。

(クラヴィス様が、私のために……宇宙のために使われる力を、私一人のために……)




 嬉しさも感激も、今は抑えないでいよう。そうしてここで、思うさま、泣いておこう……

 あの方が戻られた時に、微笑んでお礼が言えるように。




 (忘れません……今日の事は、ずっと……)

 部屋いっぱいの安らぎに抱かれながら、少年は、誰に憚る事もなく涙を流し続けていた。
FIN
01.05



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