共鳴り
聖地には珍しく、風の吹きすさぶ夜だった。
クラヴィスは、カードの並べられた居間の卓から顔を上げた。
神経が立っているのだろうか、完全に遮られているはずの風音が、気になって仕方ない。
窓辺に歩み寄り見上げれば、夜空を駆ける数多の雲が、まだ欠け始めたばかりの明月に、輪郭を白く照らし出されている。
途切れながら注がれる光の下、黒い影ばかりとなった庭の木々は、枝葉を激しく振り続けている。
まるで、抑えられぬ苛立ちを感じているかの様に。
隠しきれぬ怯えを抱いてでもいるかの様に……
時計の針は、疾うに夜半を回っている。
既に下がらせた使用人たちも、皆、眠りに就いている事だろう。
夜景に背を向けるように窓辺を離れると、クラヴィスは、部屋の一隅に据えられたサイドボードに向かった。
飾りの無いデキャンタ − 眼の利く者が見れば、その簡素な造形の中に技巧の粋が込められているのが分かるだろう − と、揃いのグラスを取り出し、酒を注ぐ。
そしてソファに身を沈めると、立ち上るスピリッツの芳香に、しばし神経を集中させた。
他の感覚は、使いたくない。
風の音は強すぎ、この部屋は広すぎる。
部屋だけではない、この館も、聖地もみな、広すぎる。
これほどに心が騒ぐのは何故だろうと考え始めた彼は、間もなくその理由に思い当たり、自嘲の笑みを洩らした。
(リュミエール、お前か……)
水の守護聖が職務のために聖地を離れて、これで三日目の夜になる。想いを打ち明けあい、夜も共に過ごすようになってから、何度目になるか知れぬ、一時的な別離。
その度に彼は思い知るのだ、愛する者の不在が、時間と空間を、いかに膨張させるものかを……
(……だが)
それにしても、今宵は度を越しているのではないか。
あの風の音が、どうしても耳から離れない。
ふと視界の隅に、優しい色彩が入った。
月明かりを慎ましやかに照り返しているのは、壁際の小卓に置かれた竪琴である。
いつこの館を訪れる事になっても、演奏の所望に応えられるようにと、少し前にリュミエールが置いていったものだ。
心得の無い者が弾いても、音くらいは出るだろう。それで少しでも気が紛れ、胸の中の風音をかき消せるものならば……
クラヴィスは立ち上がると、不安定な気分から逃れるように、それを手に取った。
木製の竪琴は、透明な塗料がごく薄く塗られているだけで、色も手触りも、素材をそのまま活かした作りになっていた。
滑らかな白木の肌は、材質を実際よりも柔らかく感じさせ、未だ息づいてでもいるかのようにしっとりと手に馴染んでくる。
音色のために削り出され、目に快い微妙な曲線を描いている輪郭が、こうして触れていると、更にはっきりと感じ取れる。
緩やかに湾曲した側面を、クラヴィスの手が辿り始めた。
ゆっくりと下がっていった掌は、やがて底面に至り、その豊かな弧の感触をしばし楽しむと、静かに返される。
脇に沿うように進み、弦の張られた根元をなぞって、銀色の小さな光を放つ弦を避けながら、再びゆっくりと弧を登っていく。
そして行き着いた先端に、指先で軽く、弄ぶように触れてやる……
(私は……何をしているのだ?)
自分が竪琴に、その所有者の温もりを見出している − いや、見出そうとしている − のを悟り、クラヴィスは竪琴を手から離そうとした。
だが同時に、彼は気づいたのだった。
この虚しい行為によって、自分ではどうしようもなかった先刻からの不安が、驚くほど抑えられているのに。
在りもしない温もりを想うだけで、心が救われていく。
(これほどに……)
自分はリュミエールに支えられ、頼り……縋っていたのだ。
静かに目を閉じ、息をつくと、彼は低い声で言った。
「では私も、逃げるのは止そう……一緒に来てくれるな」
竪琴を片腕に抱いたまま、クラヴィスは部屋を横切った。
そして、庭に通じるガラス扉に手を掛けると、一瞬の躊躇の後、それを押し開いた。
たちまち流れ込む暴風を全身に受けながら、彼は後ろ手に扉を閉め、庭へ歩き出した。
髪も衣も、引きちぎれそうな勢いで靡いていく。
だが、クラヴィスが気に留めているのは、ただその音だけだった。
耳を覆いたくなる心を奮い立たせ、護符のように竪琴を抱きながら、彼は待ち受けた。
泣き叫ぶが如きそれが、遠い記憶、遠い痛みを蘇らせるのを。