共鳴り・2



 ………………

 泣き叫んでいるのは、大人の背の半分を、やっと少し越えたほどの子どもだった。

 熱のある身体で歩くうちに足がもつれ、転んで踵を挫いてしまったのだ。

 だが、その声に耳を貸す者はいない。

 何者かに追われているのだろう − 珍しくもない事だが − 木も生えぬ荒野を往く一群の流浪民は、馬車もなく、靴もなく、ただひたすらに先を急いでいた。

 子どもは転んだ姿勢のまま、なおも泣き続けている。

 だが、誰も振り向かない。

 足の痛みと熱、そして、置いて行かれる恐怖に、体が震え出した。

 声は涸れ、意識が遠のいていく。

 霞んでいく視界の中で、群の女の一人が、僅かに振り向いたように見えた……。




 (私にとって、あれは……特別な事ではなかった……)




 日常の中にあっても、彼に話しかけ、あるいは話を聞く者は無かった。

 悪感情があったわけではない。ただ、群の者はいつも、忙しすぎるか、疲れすぎていたのだ。

 それでも必要があって、大人たちは話をしていた。

 そこに入る事ができない彼だけは、いつも独りだった。

 ごくたまに、一人の女が歌を歌ってくれたが、大抵は彼女も占いに − 生きる糧を得るための仕事に − 力を使い果たし、口も利けぬほどに疲れていた。




 「お迎えに上がりました」

 ある日突然現れた、立派な身なりの男は、そう言って彼の目を見つめた。

 絶えず彼に注意を払い、その口から漏れたどんな言葉も聞き逃そうとしなかった。

 そして男は常に、誇らしげに微笑んでいた。

 旅立ちの − 幼い彼が、それまでの全てを失った − 瞬間にも。




 主星に着くと、二人は馬車で聖地に向かった。

 やがて大きな川に差し掛かった時、彼は岩だらけの河原に、一輪だけ花が咲いているのを見つけた。

 幼い目にも、それは健気で懸命な生を感じさせ、悲しみと不安で壊れそうになっていた心に、小さな日溜まりのような温かさををもたらしてくれた。

「……どうなさいました?」

「あの……あの花……」

 彼の視線を追っていた男は、馬車を止めさせ、下りていく。

 「お持ちいたしました。どうぞ」

 善意に満ちた声と共に差し出されたのは、もぎ取られた命の残骸だった。




 風は叫んでいる。

 風は泣き続けている。

 だが誰も、耳を貸そうとはしない。

 雲は恐れるように散り、木々は怯えて身を震わせる。

 だが、風の言葉を聞く者はいない……。






 ふぃ……ん、と鳴る音がした。

 クラヴィスは、驚いて腕の中を見た。

 身を守るように抱いていた竪琴が、風を受けて鳴っている。

 嵐のような叫びを澄んだ音に変え、静かに弦を震わせている。

「……リュミエール!」

 掠れた叫びが、クラヴィスの唇から漏れた。

 深く昏い傷の中に没してしまいそうだった心が、優しい響きを受けて蘇る。

「リュミエール……」

 愛しい者の名を − この宇宙の中で、永い時間(とき)の中で、最も自分に近い波長を持つ者の名を、彼は再び呼んだ。




 雲が流され尽くし、月明かりを取り戻した庭の中で、クラヴィスは竪琴を抱いたまま、風に身を任せていた。

(私には、お前がいる……)

 幸福感はやがて、切ない問いに変わる。

(これほどの深い癒しに、私は報いてやれるだろうか……)

 楽器を抱く腕に、知らず力がこもる。

 今ほど、リュミエールに逢いたいと思った事はない。

 懐かしい声の代わりに、せめてもと、長い指が弦を弾く。




 その時。

「……クラヴィス様!」

 思いがけない音色が返ってきた。

 振り向けば、まさに求めていた姿が走り寄ってくる。

「このような風の強い夜に、このような薄着で……お体に障ります。さあ、中へ……」

 挨拶も後回しに世話を焼く様子が妙に日常めいていて、事態の飲み込めないクラヴィスは、かえって幻惑されそうになる。




 急かされるように居間に戻ると、後を付いてきたリュミエールが扉を閉め、それから改めて礼をした。

「先ほどは、失礼いたしました。任務が早く終わったものですから、急いで聖地に戻り……こんな時間ですから、宮殿も閉まっておりますし、クラヴィス様もお寝みかとは思いましたが、せめてお屋敷の影なりと拝見できたらと、ここまで来てしまいました」

「リュミエール……」

「はい」

 恐縮した表情で見上げる顔を、長い腕が包む。

 そのまま押し流されるように、二人は長椅子に倒れ込んでいった。


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