遠い夜と白い朝
1.
「君は、全てを失う事になるかもしれない」
長い沈黙の後、喉から絞り出すような声が聞こえてきた。
「それが嫌なら、今の言葉を取り消してくれ……最初で最後の警告だ」
半ば焦点を失い、何かを必死で抑えているように揺れている藍紫の瞳を、ヴィクトールは呆然と見返した。
愛している、お前を生涯守りたいという告白に対し、それは、あまりに思いがけない反応だったからだ。
初めてこの年若き芸術家と出会った時、その髪と眼の藍紫色が、妙に印象的だったのを覚えている。
それから、同僚として仕事や日常を共にするうちに、気まぐれで皮肉な態度の奥に隠された、セイランの極端な強さと脆さ − それらの、危ういまでのアンバランスさ − を、ヴィクトールは幾度も垣間見てきた。
そうしてその度に、この若者から目が離せなくなり、守ってやりたいという衝動を覚え、やがて、自分だけの大切な相手として、ずっと慈しみ続けたいという切望を抱くようになっていったのだ。
だがこの夜、ようやく覚悟を決めて私室を尋ね、心の内を告げた返事が、最前の言葉だった。
静まり返った青い部屋に、旧式の時計の音だけが響いている。
精神の教官は、相手の言葉の意味をしばらく考えた後、諦めたように言い出した。
「すまんが、もう少しはっきり話してもらえないか。断るなら、そう言ってくれて構わない」
その言葉に、藍紫の双眸が、すうっと焦点を取り戻すと、今度は睨み付けるように見返してくる。
困惑したように若者の視線を受けながら、しかし大柄な軍人は、きっぱりと告げた。
「だが、返事がどちらだろうと、俺はさっきの言葉を取り消そうとは思わない。お前がそう望まない限りはな」
「望む……?」
感性の教官は両眼を閉じ、天を仰ぐように顔を上げた。苦しみを受け入れたか、あるいは何かを諦めたかのように瞼に力が入り、優美な眉が歪む。
「……僕は、何も望んだりしない。芸術と君以外は」
形のいい小さめの唇が、嘆きにも似た長い息と共に、静かな言葉を紡いだ。
ヴィクトールは、息を飲んだ。
今度は、考えるまでもなく意味が理解できたのだが、それが自分に向けられたものだと、すぐには信じ難かった。
男は一歩進み出ると、強い感情に掠れた声で請うた。
「もう一度、言ってくれないか」
あくまで穏やかなその言葉に、若者は緊張が解けたように前を向き、相手を見つめた。
驚くほど無防備で、何の衒いもない眼差し。
「君以外、誰もいらない……そう言ったんだ」
告げ終わった時、セイランの華奢な身体は、精神の教官の腕に優しく包まれていた。
翌日からも、それまでと変わらない試験日程が続いていた。
しかしヴィクトールは、自分が今までになく満ち足りた気持ちでいるのを、感じないではいられなかった。
セイランはもう、一方的に想いを寄せるだけの相手ではない。心から求め合い、唯一特別の人として愛し続けていくと誓い合った、大切な伴侶なのだ。
「お前に、聞いて貰いたい事があるんだ……」
気持ちを告げ合った夜に話した、暗い過去 − 災害救助中に、部下全員を失った事 − も、若者は既に、風聞と勘から察していたようだった。
手袋を外した彼の両手に、愛しそうに寄せられたセイランの唇の感触は、心に残る傷さえも癒してくれそうなほど、温かく柔らかかった。
一方セイランも、この夜を境に変わってきたように見える。
以前より表情が明るくなっているし、何よりも、今まで我慢していたのかと思うほど、自ら進んでヴィクトールに接してくる − と言っても、いかにもセイランらしい方法なのだが − ようになってきたのだから。
制作活動に疲れたか、彼なりに試験や聖地での生活に神経を使っているのか、若者は時折、ふらっとヴィクトールの私室を訪ねてきては、物も言わないまま、相手の胸に頭を預けてしまうのだ。
そのまま静かに寝入ってしまう事もあれば、しばらくして落ち着いた様子で「ありがとう」と出ていく時もあり、また、より情熱的な行為へとなだれこんでいく場合も少なくはなかったが……とにかく、ヴィクトールにとっては、そんな甘え方をしてくるセイランが、どうしようもなく愛おしい事に変わりはなかった。
ただ、時折若者が、何事かじっと考え込んでいる様子が、心のどこかに引っかかっていた。
誰でも、考え込む事くらいあるだろうとは思うのだが、そういう時にはいつも、セイランの意識がヴィクトールに向いているように感じられて仕方ないのだ。
だが、幾度尋ねても、考え事の内容を明かしてもらえる事はなかった。