遠い夜と白い朝・2

2.


 試験終了も近づいてきたある日の夕刻、ヴィクトールは、女王補佐官室に出向き、前もって申請しておいた書類を受け取った。

 まだ少女にしか見えないが、その職にふさわしい威厳と貫禄を、見事なまでに備えている補佐官が、念を押すように問いかけた。

「日付は、明日で宜しかったわね?」

「はい。試験期間中は時流操作が行われないと伺いましたので、主星暦から割り出しました」

「そう……では、気を付けて行っていらして」

水色のヴェールの下、意志の強そうな大きな瞳に、深い慈悲の色を浮かんでいるのが見える。

 精神の教官は、無言のまま、丁重に礼をした。






 あの災害の日が巡ってくるたびに、彼は現場に赴いて、一人祈りを捧げ続けてきた。

 自分だけが祭り上げられがちな公式式典を避けるため、いつも隠れるように向かわなければならなかったが、それでもこの日だけは、部下たちを偲び、至らなかった我が身を謝罪したかった。

 そうして、改めて問いたかった。

 自分が、一人生き続けるに値する男なのかどうかを。






 既に馴染みの住居となった学芸館の、古めかしいが手入れの行き届いた廊下を歩いていくと、自室の扉の前に、感性の教官が立っているのが見えてきた。

「セイラン……待っていたのか?」

驚いたように掛けられた声に、若者は無表情に頷く。

 だがその顔には、いつもこの部屋を訪れる時とは全く違う、どこか、ぞっとするような陰が現れていた。

「……どうした?」

心配そうな問いかけにも、相手の唇は開こうとしない。

 とにかく中で話そうと、精神の教官は扉を開けた。




 彼の使っている居間は、落ち着いた雰囲気の広い部屋だった。

 臙脂と灰色に僅かな暗金色を効かせた内装が、褐色の木製部分と相まって、重厚さと温かさを醸し出している。

 奥の壁の中央には、木枠の大きな暖炉がしつらえられ、座り心地の良さそうな長椅子と安楽椅子のセットが置かれていた。




 感性の教官は、その長椅子にどさっと座ると、瞳と同じ色をした髪を、苛立ったように掻き上げた。

 傍らに座るのが躊躇われたヴィクトールは、長椅子の前に立ったまま、困惑した表情で尋ねる。

「なあ、何があったんだ?」

すると若者は、物も言わず、彼の手から書類を取り上げた。

「セイラン!?」

「外出許可証だね、聖地からの」

 数々の芸術作品を生みだしてきた白く細い指が、二つ折りにされたままの書類を、しばらく弄ぶように翻した後、ぐしゃりと握りつぶした。

 ヴィクトールの鳶色の眼に、一瞬激しい怒りが浮かび、すぐに、抑えられるように消えていく。

「……返してくれ」

 相手の硬い表情をじっと見上げながら、セイランは冷たく頭を振った。

「明日が何の日か……僕が、気付かないとでも思ったのかい」

 ヴィクトールは、少し驚いたように感性の教官を見返したが、厳しい口調は変わらなかった。

「知っているのなら、尚更だ。書類を返してくれ」

「そう」

若者は真横に手を伸ばし、そのまま許可証を床に落とした。

「セイラン!」

「それほど欲しいなら、拾えばいい」

 憤りと不可解さに震えながら、ヴィクトールが身体をかがめた瞬間、セイランは不意を打つように相手の襟首を掴み、自分の前に跪かせた。

「何をする!」

思わず振り払った勢いで、手袋をはめた大きな手が若者の顔に当たり、乾いた音を立てる。

 ヴィクトールは、はっとして相手を見た。

 磁器のような白い頬の、ちょうど眼の下あたりが、見る見る赤く腫れていくのが分かる。

 だがセイランは、それを気にも止めずに手を伸ばすと、はだけかけたヴィクトールのスカーフを、シャツのボタンと共にむしり取ってしまった。

「この傷も……この傷も……」

藍紫の瞳が、むき出しになった上胸部に残る痕を、恨んででもいるかのような眼差しで見下ろす。

「おい、本当にどうしたんだ?俺の傷痕を見るのは、初めてじゃないだろう」

 ただならぬ様子が心配になり、ヴィクトールは膝立ちのまま、若者の肩に手を置いた。

「……羨ましい」

「何?」

 セイランが顔を上げると、血の気を失ったその端正な面立ちに、引きつるような笑みが浮かんでいるのが見えた。

「……死んでいった君の部下たちが、羨ましいって言ったんだ」

 ヴィクトールの心の、一番奥にある深い傷が、巨大な槌で打たれたように痛んだ。

「何を……言い出すんだ」

 だが若者は、熱に浮かされたように言葉を続ける。

「だって、これほど美しい痕跡を、君の身体に遺せたんだよ。まったく、何て運がいい連中だったんだろうね、誰もが、命と引き替えに、美を遺せる訳じゃないというのに」

 大きな手に、細い肩を砕きそうなほどの力を込めながら、ヴィクトールは呻くように言った。

「止めろ、それ以上言うと、俺は……」

鳶色の双眸に、暗い光が閃いている。

 それでもセイランは、眼を逸らそうともせずに、むしろ恍惚とした表情で続けた。

「いいじゃない、きっと彼らも喜んでいるだろうさ、君を慕っていたんだろうから」

「黙れーーーっ!!」

大きな両手が若者の首を掴み、長椅子に引き倒したまま圧してくる。

 圧倒的な力に喉をつぶされ、苦しげに顔をゆがめながら、それでもセイランは何かを言おうとしていた。

「……っと……た……」

 喉から絞り出すようなその声が、ヴィクトールの頭に、あの言葉を蘇らせた。




 『君は、全てを失う事になるかもしれない』


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