遠い夜と白い朝・3−1
3.
はっと我に返った男は、慌てて両手を放すと、若者に呼びかけた。
「セイラン!セイラン、大丈夫か」
藍紫の髪の若者は、横たわったまましばらく喉を押さえ、苦しそうな音を立てて呼吸していたが、間もなく相手に視線を向けると、掠れた声でゆっくりと呼びかけた。
「……ヴィク……トール」
「すまなかった!我を忘れて、とんでもない事を……」
男は、身の置き所もない様子で、ひたすら謝った。
しかし若者は、青ざめた顔に、安堵と満足の混ざった笑みを浮かべ、独り言のようにこう呟いただけだった。
「やっと……怒った」
程なくセイランが自力で起きあがり、普通に会話出来るくらいに回復したのを確認すると、ヴィクトールは、向かい側の椅子にどさっと腰を下ろした。
若者の室内着の襟元から、白い喉と、呼吸の度にそこに波打つ赤い鬱血痕が覗いている。
自分のしでかした事も相手の言った事も、どちらも信じられない思いで、男は暗紅色の頭を振った。
だが、それらが間違いなく現実である以上、ここで、自分たちで、何とかしなければならない。
精神の教官は覚悟を決めると、できるだけ落ち着いた口調で言い出した。
「……それで、どういう事なんだ?」
「何が?」
「何もかもだ!」
藍紫の髪の若者が、あまりに平然と聞き返したので、ヴィクトールは思わず声を上げてしまった。
「書類を取ったり、妙な事を口走ったり……さっきから、お前はどうかしているぞ!」
答の代わりに聞こえてきたのは、嗚咽のような、低い笑い声だった。
しかし、セイランの顔に表情はなく、ただ大きな瞳に、いかなる感情からか伺い知れぬ涙が湛えられているだけである。
「どうかしている、か。確かにね」
ヴィクトールの膝に置かれた大きな両手を見つめながら、若者は静かに続けた。
「けれど、これで平常なんだよ。挑発して、本当の君をえぐり出して、手に入れてしまいたい……そんな愛し方しか、僕にはできないんだ」
「お前……」
「たとえそのために命を落とし、君をも壊す事になってしまっても、ね」
ヴィクトールは、慄然として相手を見返した。
「この事だったのか!? あの時お前が、俺が全てを失うかもしれないと言ったのは、こういう意味だったのか!」
静かに頷くと、セイランはまるで他人事のように言った。
「いつかこうなると、分かっていたけれど……あの警告が、僕には限界だった。欲しくて堪らないものを得られる、またとない機会を見送れるほど、自制心が強くはないんだ」
男は目を伏せ、大きく息を付いた。確かに警告は受けていたのたのだし、先刻の言葉が、命がけの挑発だったとしたら − 例え、多少常軌を逸していようと − 言葉自体を咎めるのは、意味がないのかもしれない。
だがそうなると、余計に分からない事がある。
「それで、そんな危険を冒してまで手に入れたいという、“本当の”俺っていうのは何なんだ。俺が、自分を偽っているとでも言うのか?」
「……じゃあ、殺していると言ってあげようか?」
急に変化した語気に視線を戻せば、若者の瞳は挑むようにこちらを見据え、そこに満ちた涙ごと、恐ろしいほど爛々と輝いている。
「経験から学ぶとか、年月が変えるというレベルじゃないよ。あの事故のせいで、君は本来の姿を捨ててしまったんだ。本当は、もっと感情のままに振る舞えて、自分の長所も欠点も堂々と認められる、そんな人だったのに!」
激しい眼差しを浴びながら、男は、自分の中で、ずっと息を潜め隠れていたものの存在を、感じていた。
セイランの言うとおり──なぜそれを知っているのかは、分からないが──確かに、あの事故以前の自分は、もっと感情の起伏が大きく、特に私事においては、衝動で動く事も多い人間だった。
だが、一人生き延びてしまった以上、それに相応しい男にならなければと思い、努めて思慮深い行動をとるように、自分を習慣づけてきたのだ。
少なくとも、つい先刻までは。
それが、間違いだとは思わない……が……