やわらかな腕・8
8.
ひとしきり笑い終えると、セイランはミネラルウォーターの残りを飲み干し、グラスを置いた。
「さて、もう話は終わりだね。さすがに今日は、色々な事がありすぎた」
そう言って立ち上がろうとしたが、うまく足下が定まらない。
下手に歩き出すと転んでしまいそうなので、若者は仕方なく椅子の背に捕まった。
「顔色悪いな、大丈夫か?何だったら、そこで休んでったらどうや。まだ夜半まで時間はあるし……あ、別に、妙な事考えてる訳やないで!俺は食事でもしてくるさかいに、その間ベッドを使うてたらええ、言うてるだけやから……」
チャーリーが一人でまくし立てている間に、セイランは黙ってベッドに潜り込んだかと思うと、もう寝息を立て始めていた。
「せやから、俺の事なんか気にせんと、って、あら、もう寝てはるわ……よほど疲れてたんやな。この人には、めっちゃ精神的にきつい一日やったろうし」
いたわるように見下ろせば、普段の幾分きつい眼差しを失った白い寝顔は、驚くほど無垢で無防備な、あどけない表情になっていた。
(うわ、あかん!目の毒や)
たちまち膨張する本能をかき分け、何とか理性を掘り起こしたチャーリーは、急いでドアに向かうと、勢い良くそれを開いた。
「ひっ!」
「わっ!」
目の前に飛び出した人面に、二人の人間が同時に悲鳴を上げる。
ちょうどホテルのボーイが、チャーリーの部屋のチャイムを鳴らそうとした所だったのだ。
「失礼いたしました。ただいま、王立研究院の方がフロントに急ぎのメッセージを寄せられましたので、お届けにまいりました」
「ああ、ごくろうさん」
研究院のマークの入った封筒を受け取ると、青年はボーイを帰らせ、封を開けた。
『新宇宙初代女王が決定しました。お二人とも至急、聖地までお戻り下さい』
(……来よったか、ついに)
チャーリーは、しばし目を閉じて感慨に耽っていたが、すぐに気を取り直してセイランを起こした。
「セイラン、セイランさん、女王が決定したで!すぐ行かなあかんから、起きとくれやす!」
叫びながら肩を揺すられ続け、寝ぼけたようにシーツをつかんでいた若者も、ようやく目を覚ました。
「決定……した?」
「ああ、まだどっちなのかは分からへんけど、とにかく急がな!」
細い腕をつかんでドアに向かい掛けた青年は、背後から聞こえた呟きに、思わず足を止めた。
「……戻れば、終わってしまうよ」
それは、聞いたこともないほど、切ない声だった。
振り返ったチャーリーの目に、自分が何をどんな声で口走ったのかに気づき、呆然としている若者の姿が映った。
思わずその身体を引き寄せると、セイランは身を翻し、ドアに向かおうとする。
だがチャーリーは、相手の腕をつかんで後ろを向かせると、力いっぱい抱きしめて口づけた。背をドアに押しつけられ、動きを封じられたセイランの唇を割り、想いの全てを込めてその内部を愛した。
逃れようともがいていた細い指がやがて背に回り、強く首を抱いてくるのを感じながら。
それ以上進めないと分かっている長い口づけは、時の目盛りに引き裂かれるように終わった。
「もう、行かなあかん」
肩で息をするばかりのセイランの額に、互いをなだめるかのようにキスを落とすと、チャーリーは告げた。
「俺は、終わりにするつもりはない。こんな仕事やから、いつもあんたの側にいてやる事もできへんけど、それでも俺にはあんたが一番の人やし、自分もあんたの一番になりたいと思う。せやから、試験が終わってもまた会えるように、このホテルのフロントに連絡先を置いていく。今は訳があってできへんけど、試験の後かたづけも何もかも終わって、俺たちがみんな聖地を出ていく日、必ずメッセージを残してくから……会いに来て欲しいんや」
藍紫の髪の若者は、一つ大きな息を付くと、まっすぐに相手を見上げる。
「約束は出来ない。君にはもう、心を許さないまま会うような真似はしたくないんだ」
「……そうか。そうやろうな」
穏やかな眼差しで腕を組み、青年が答えた。
「分かった。あんたが気持ちを整理できて、自分の心を縛るのを止めたら、それで他人を、いや、俺を受け入れたいと思うようになったらな。その日を待ってるで」
セイランが黙ってうなずくのを見てから、チャーリーは部屋のドアを開けた。
ホテルから外に出ると、頭上の空には深夜の星が広がっていた。
藍紫の詩人が、ぽつんと呟く。
「新宇宙の女王が決定した、歴史的な夜……なんだね」
商人は、気楽そうな口調で答えた。
「まさに“歴史的な夜”や。俺個人にとっても」
数週間後、このホテルのフロントに、“***号室の商人より、セイラン宛”と記されたメッセージが託された。
だが何ヶ月経っても、その受取人が現れる事はなかった。
FIN
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