続・大切な日
瀟洒な白い館からは、夜が更けてもなお、竪琴の音が流れ続けていた。
華やかに、また厳かに響いているのは、翌日に演奏する祝いの曲である。
(やはり、ここの和声はこうした方がいいでしょうか……そして、装飾音はこのように……)
室内では青銀の髪の少年が一人、小さな包みを置いた卓を前にして、飽きる様子もなく弦に指を走らせていた。
元々が古謡や合奏曲であったものを自分で編曲しているので、気がついた所に後から手を加える事自体は珍しくもない。
だが、直前になってまで、これほど根を詰めて調整を続けているのには、訳があった。
やがて、居間の時計が日付の変わった事を告げた。
「あ……」
少年は顔を上げ、卓上の包みに目を向けると、そこにはいない人に向かって祝福の言葉を呟いた。
「お誕生日、おめでとうございます……クラヴィス様」
「お誕生日、おめでとうございます、クラヴィス様」
約9時間後、執務室前の廊下で同じ言葉を発したリュミエールの前には、当の相手の姿があった。
「誕生日……」
「はい」
振り向いた闇の守護聖の驚いた表情が、前回の − 自分が聖地に来て初めての − 相手の誕生日から、少しも変わっていないように思われて、少年は心中で苦笑した。
「……そうか」
それだけ答えると、黒髪の青年は、執務室に入っていった。
昼食後のコーヒーを飲み終わる頃、闇色の執務室に、聞き慣れたノックの音が響いた。
「……開いている」
低い声に答えるように入ってきたリュミエールは、いつもより弾んだ様子で一礼した。
「失礼いたします」
朝もそうだったが、珍しく、少し声が掠れているようだ − ぼんやりとそんな事を思いながら、黒髪黒衣の青年は、無言で頷いた。
「今日はお誕生日ですから、お祝いの曲を奏でたいと思います……が」
年若き水の守護聖は、動悸を抑えるように一呼吸おいてから、続けた。
「その前に……これを受け取っていただけないでしょうか」
切れの長い暗色の眼が、訝しげに少年に向けられる。
水色の袖からのぞく華奢な手が、竪琴と共に小さな包みを持っている事に、クラヴィスはその時初めて気づいたのだった。
「お祝いの気持ちを込めて、用意いたしました」
闇の守護聖は、相手の言う意味を理解できないまま、献上の式典のように機械的に頷いた。
「……ありがとうございます!」
贈り主の方が礼を言うのも妙な話だが、それが不自然に見えないほど、リュミエールは嬉しそうである。
部屋の主が横たわるカウチに静かに歩み寄り、捧げるように包みを差し出す。
「お誕生日、おめでとうございます」
クラヴィスはゆっくりと半身を起こすと、無表情のままそれを受け取った。
手のひらに乗るほどの大きさで、繊細な浮き出し模様の施された艶消し銀の包装に、真珠光沢のある生成りのリボンが掛けられている。
青年はしばし迷った後 − 献上品は従者が開封するのが常だったが、さすがに今は事情が異なるのに気づいたらしい − 包装と、そして中から現れた小箱を開いた。
そこには、円錐台を帯びた滑らかな形をした、暗紫色のガラスが納められていた。
「これは……」
取り出してみると意外に重さがあり、その形も、美しいばかりでなく、実に手になじむ、持ちやすい意匠になっているようだ。
さらに、明かりに乏しい室内でも見て取れるほどの深い色合い、控えめに混ぜられた銀粉の美しさは、よほど念を入れて注文しなければ手に入らない類の材質である事を示している。
「はい、ペーパーウェイトとして使っていただけたら、と思いまして……」
いつもの柔らかな微笑に、気に入ってもらえたかどうか不安に思う気持ちが、仄かな影となって射している。
黒髪の青年は、しばらく手の中のガラスを見つめていたが、やがてそれをリュミエールに手渡すと、執務机に置くよう、仕草で示した。
「はい!」
少年は、喜色を隠そうともせずに答えた。
机からいつもの位置に戻ってくると、リュミエールは一礼し、
「それでは…お祝いの曲を」
と、奏で始めた。
心を躍らせるような旋律。喜びに満ちた響き。
暦が一巡りして、またやってきたこの日。
(私が、生まれた日……か)
一心に演奏し続けている少年の横顔を、クラヴィスはぼんやりと眺めていた。
生の始まりを表す重要な日付だというのは理解できる。だが、他人の誕生日が、どうしてそれほどに嬉しいのか、どうしても分からない。
それ以上考えるのを放棄し、彼はただ、この美しい調べに心を委ねる事にした。
午後の執務時間が始まり、自分の部屋に戻ってくると、リュミエールはほっと息をついた。
この聖地で誰よりも大切に思っている──しかも、どうやら個人的に物を贈られる習慣がないらしい──相手への、初めての贈り物。
そうして、言葉では表しきれない感謝や祝福が伝わるよう、思いを込めた演奏。
(良かった……どちらも、受け取っていただけて)
贈り物を決めるのに悩んだ日々も、夜ごとの編曲や練習に費やした時間も、その何倍もの喜びとなって戻ってきたように感じられる。
幸福そうに微笑むと、青銀の髪の少年は、執務に取りかかった。
だがどうした事か、書類の内容がまるで頭に入ってこない。幾度も読み返している間に、小さな欠伸が出てきて、リュミエールは苦笑した。
(慣れない夜更かしを、何日も重ねてしまいましたからね……)
傍らの小部屋で濃い紅茶を入れて飲み、執務室の窓を開け放つと、あらためて机につく。
しかし数分もしない内に、青銀の睫毛に縁取られた瞼が、少年の瞳を覆い隠していたのだった。
闇の守護聖は、書類を手にしたまま、無言でその様子を見下ろしていた。
(……リュミエール)
この部屋の扉を叩いた時、返事を確認しなかったのを、いまさらのように思い出す。
執務机の上に緩く組んだ腕、そこに頭を預けて、青銀の髪の少年は安らかに寝入っているのだ。
窓から入る微風が、癖のない髪の表面だけを乱していく。午後の陽を浴びて柔らかく輝く背と肩、仄かに暖色が差す滑らかな頬が、呼吸と共に微かに上下している。
それは、見ている者の心まで解いてしまいそうな光景だった。
普段と違う流れになっている前髪の間からのぞく額や眉目、繊細な鼻梁、そして今は表情もなく、ただ緩く結ばれた唇……
不意にクラヴィスは、この眠りを破ってやりたい衝動に襲われた。
大きな音を立てたなら、あの背は、雷にでも打たれたように反り返るのだろうか。
あるいは肩を揺さぶれば、あの眼は、恐れを湛えて見開かれるのだろうか。
この手で、あの肩を……掴んで……
切れの長い眼に鈍い光が宿り、色のない薄い唇が、わずかに険しく引き締められる。