続・大切な日‐2


 扉の閉まる音がして、リュミエールは目を覚ました。

 眠っていた事を思い出すのに数秒、更に、誰かが部屋から出ていったらしいと気づくのに、それ以上の時間がかかり、慌てて廊下に出た時には、既に誰の姿もなかった。

 少年は、困惑した表情であたりを見回していたが、やがて、諦めたように自室に帰っていった。




 暗色の布に包まれた空間に戻ったクラヴィスは、荒々しく書類を机に置いた。

 不快だった。

 自分の中に湧き起こった衝動も、それによって引き起こされた動揺も、共に不快だった。

 水の守護聖に声も掛けず、書類も置かずに、そのまま部屋を出てきてしまったほどに。

(愚かな……)

記憶さえ尽きるほどの長きにわたって保たれてきた静寂が、これほど簡単に乱されてしまうとは。

 白く長い指を額にあて、嫌悪の表情で水晶球を見ると、燭台の光を受けた自分の輪郭が、揺れながら薄く映っていた。

 神経を集中させながらしばらく待ったが、光源である炎自体が揺らめいているので、その影もまた決して静まろうとはしなかった。




 ややあって、闇の守護聖の白い面に、微かに苦笑が浮かんだ。

(静寂など、初めから……なかったのかもしれぬな)

 自分は何ものにも動じないと、永遠の静寂を得ているのだと、思い込んでいた。

 だがそれは、根拠のない自惚れに過ぎなかったのかもしれない。

 そもそも真の静寂を得られる者など、存在し得ないのではないか。長い時の中にあって、その流れを感じなくなっていたとしても。変化を殺した日々が、単なる直線にしか見えなくなっていたとしても。

(私もまた、揺らがずに時を過ごす事など、不可能なのだろう……この世に生きている限りは)




 静まりきった水面を見ると、小石を投げ込まずにいられない幼子のように。

 衝動は、生の証の一つなのかも知れない。

 だから、認めるしかないのだろう。

 不快であろうと、そして、それが……どのような生だろうと。




 闇の守護聖は、机上で混ざってしまった書類から、水の執務室に持っていく分を取り分けると、残りをペーパーウェイトで押さえた。

 この暗紫色のガラスが、まるで長年愛用してきた物のように使いやすいのは、時おり執務を手伝いに来るようになったリュミエールが、相手の好みや癖を──この自分自身よりもよほど──よく把握しているからなのだろう。

(あの者らしい……な)

 揃えた書類を手に、立ち上がろうとすると、控えめなノックの音が聞こえてきた。

「開いている」

 低い声に応じて入ってきたのは、まさにその者 − リュミエールだった。

「クラヴィス様」

深い海の色をした瞳に、不安の表情が満ちている。

「あの……先ほど私の執務室にいらっしゃったのは、クラヴィス様でしょうか」

黒髪の青年が頷くと、少年の面から、血色がさっと退いた。

「失礼をいたしました。申し訳ありませんでした!」

 きっぱりとした謝罪は、いっそ気持ちよいほどだったが、クラヴィスにはその理由が思い当たらない。

「……何を謝っている」

「は、はい……」

リュミエールは、恐縮しきった表情で告げる。

「黙って執務室を去られたのは……私が寝入っていた不作法を、お怒りになっての事でございましょう」

 闇の守護聖は、怪訝そうな眼差しで相手を見返した。

 少年に対して怒っていたわけではない。ただ、彼に引き起こされた、自分の衝動や動揺に苛立っていただけなのだ。

 しかし、それをどう説明したら良いものか。




 しばらく考えたあげく、クラヴィスはまた、諦めてしまった。

 もう感じていない怒りを説明し、その責を負わせたところで、何の易もないだろう。むしろ少年には、このような形で改めて生を実感させてくれた事に、感謝するべきかもしれないのだ。

(かなり不快の伴う実感ではあるが……な)

 衝動というものに、あまりに不慣れな自分を蔑むように、クラヴィスは冷たく呟く。

「……あのような姿を、見るものではないな」

 リュミエールが、息を飲むのが聞こえた。

 そちらに眼を向けた闇の守護聖は、自分の言葉が、厳しい叱責となって相手の心に刺さったのを悟った。

「……申し訳ありません……」

先ほどより更に蒼白になった少年は、今にも消え入りそうな声を振り絞って、謝罪を繰り返す。

 黒衣の青年は、心の中で大きなため息をついた。

(どうして、こうなってしまうのだ……)

怒っても責めてもいないのだと、どうやったら分かってもらえるのだろう。

 思わず片手で額を覆うと、反射的に机上を動いたもう一方の手が、ガラスの感触を覚えた。

(先ほどの……)

 暗紫色のペーパーウェイト。

 小さなガラスの塊に込められた好意や気遣いが、今は苦しいほどに感じられる。




 もし自分からも、何か贈る事ができたなら、返してやれたら、相手の望む事を叶えてやれたなら……怒っていないと、伝えられるだろうか。

 だが、少年の望みを、彼は何も知らなかった。

(リュミエールが、何か私に望んだ事が、一度でもあっただろうか……)




 程なく、クラヴィスの心に、ある考えが浮かんだ。




 自責と後悔に震えながら、青銀の髪の少年は、ただ立ちつくしていた。

 と、突然その耳に、思いがけない言葉が聞こえてきた。

「……一曲、奏でてもらえぬか」

 深い海の色を映した大きな瞳が、さっと見開かれる。

 言葉もなく見上げるリュミエールを、表情の読めない紫の眼差しが包む。

(クラヴィス様……今、何と……)

「お前の調べが聞きたい。奏でてはくれぬか」

黒髪の守護聖は、珍しくはっきりとした口調で繰り返した。

「はい……」

 少年は呆然としたまま答え、それから我に返ったように、もう一度言った。

「はい、ただいま竪琴を持って参ります!」

繊細な面に血色が蘇り、輝くばかりの笑顔に変わる。

 急ぎ足で部屋を出ていくリュミエールを見送りながら、クラヴィスは長い息を漏らした。

 一度だけ、側にいたい、癒しを願いたいと口にした──許可を請う価値のある事でもあるまいに──のを別にすれば、「演奏を聞いていただけますか」という、毎日繰り返される言葉だけが、少年から彼に向けられる、唯一の望みだった。

 こんな事で解決するかどうか、確信はなかったが、とにかく言ってみて良かったようだ……

 整った白皙の面には、珍しくも、微かな安堵の色が差していた。




 暗色で覆われた室内を、美しい旋律が流れていく。

 青銀の髪の少年が、優しい微笑を浮かべながら、竪琴を奏でている。

(クラヴィス様……)

執務机についたまま聞き入っている闇の守護聖を見つめながら、少年は心で呟いた。

 不作法を責められた後に、なぜ演奏を請われたのかは分からない。

 けれど、不興が解けたのが分かって、自分がどれほど救われた気持ちになった事か。

(それに……気づいていらっしゃらないかもしれませんが)

リュミエールは、嬉しさをかみしめるように目を閉じる。

(……クラヴィス様の方から、演奏を聞きたいと言って下さったのは、初めてなのですよ)




 机上に置かれペーパーウェイトの、まるで時の始まりからそこにいるかのような風情にも似て、この言葉もまた、いつしか呼吸のように自然に発せられる事になる。

 その最初の一言は今、繊細な指先から、ひときわ喜びに満ちた音色を引き出していた。


FIN
0111


ナイトライト・サロンへ


続・大切な日‐1へ